連載コラム:「荒れ野のオアシスにたどりついて」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第45回
荒れ野のオアシスにたどりついて

稲城・川崎地区 岡田 恵子

 学生時代に聖書に出会ってから四半世紀を経て、ようやくカトリック多摩教会に巡りあい、今年受洗させていただきました。「福音の村」で晴佐久神父様の説教に出会い、学生時代に教えを受けた説教と同じ、聖霊に満たされたみ言葉がここにある! と導かれました。今は、カトリック多摩教会という秘跡の素晴らしさに、日々感動しています。
 み言葉に出会っていながら、自分のことでしか祈れなかった日々でしたが、今は、ひたすら、福音宣教に邁進しています。春から夏にかけては、「洗礼をうけたの! カトリック多摩教会のミサは素晴らしいの! ぜひ一度おいでよ」と、友人に会うごとに話していました。とは言っても、理解してくれそうな人に限られているのですが。

 学生時代は、毎週欠かさず日曜の礼拝と聖書を読む会に参加し、電機メーカーの広報室勤務の頃は、社内のクリスチャンの祈りの会や、プロテスタントの教会で牧師先生との聖書の勉強会、お茶ノ水クリスチャンセンターで国際ナビゲーターの先輩と毎週10個ずつ聖句を暗唱したりと、信仰第一の生活でした。けれど子供を持ち、各地を転勤して、家族に遠慮するうち、いつの間にか、隠れキリシタンのような信仰生活になっていました。
 洗礼を受けて、それまでの覆いが取り除かれたかのように、信仰の炎がふたたび燃えあがるのを感じています。十字を切るだけで信仰を証しできる喜び、多くの信仰の友と交わる喜びは、長く孤独な信仰生活があったから、これほど大きいのかもしれません。荒野をさすらうような日々を抜けだして、今、私は、天国のようなオアシスにいるのです。
 金曜夜の入門講座のお手伝いのなかで、出会う方一人ひとりが、本当に貴重で、得難く感じられます。私のなかのカトリック多摩教会のフォルダーは、まだ空っぽなので、新しい方と知り合えるのが大きな喜びです。出会った方々と友になり、よりそい、話し、ともに喜び、ともに悩めることが嬉しくてなりません。神父様のお話から得た気づきを、入門係のブログに書かせていただいていることも、大きな恵みです。

 私の住む若葉台中に信仰の喜びを伝えたい! と思うのですが、身近な家族にさえも難しいのが現状です。ずっと福音を伝えてこなかった両親には、先日、ようやく、「私は信じて救われた。どうか信じてほしい。私たちはみな、神さまに愛されている」と、み言葉を伝えることができました。私一人ではできなかったことも、教会の仲間の祈りに支えてもらって実現したのです。退院はもう無理と言われた父も、祈りの力で奇跡的に家に戻るまでになりました。本当は、天国のような多摩教会のミサに連れて来たいと思うのですが、成田という遠距離で、体力的にも無理な今、すべては神様の摂理のうち。み心がなされますようにと、日々祈っています。

 日々のさまざまな出来事のなかで、大海原の小舟のような気持ちになる時もありますが、「神のなされるわざは、すべて時にかなって美しい」と、神様にすべてをゆだねたいと、朝夕、天に祈りを捧げつつ、主日には、ミサというオアシスにたどりつき、教会のみなさんの祈りのなかで癒され、力づけられて過ごしています。