巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「さかさま社会」

さかさま社会

主任司祭 晴佐久 昌英

 「これは、日ごろつらい思いをしている、あなたたちのためのお祭りです。主催者は神さまです。信頼して、安心してお過ごしください」
 「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り(通称ここナツ)」の冒頭、そうご挨拶しました。日ごろ、自分なんかは楽しんじゃいけないんだとまで思っている方たちに、なんとか、いまここにある喜びを味わっていただきたいという企画です。
 当日は、100人以上の方たちが夕刻の癒しのミサに参加し、炭火の焼き鳥やかき氷をいただき、魚釣りゲームや花火を楽しみ、互いに紹介しあって友達を増やし、日ごろのつらい気持ちを語り合って過ごしました。落ち込みがちな気分や不安を抱えながらも、神さまに愛されているという喜びをわかちあったひと時は、まさに天国のようでした。
 有志で集まったスタッフは5月から話し合いを重ねてきましたし、当日も多くのボランティアに手伝って頂きましたが、参加者に少しでも「自分は大切にされている」と感じてもらえたなら、準備してきた者の苦労も報われるというものです。
 おみやげにお配りした聖句入りの手作りのウチワを手に、名残惜しそうに家路につく参加者を見送りながら、ああ、本当にやってよかったと思いました。

 心の病を抱えているひとりの青年が、「早く社会復帰したい」と言っていました。当然の願いですし、そのための協力も惜しみませんが、いったいどこに「復帰したい」と言っているのでしょうか。その「社会」とは、どんな社会なのでしょうか。
 心の病の苦しさは、まさに心の中のことと思われがちですし、本人も自分が病んでいると思い込んでいますが、実は相当程度、その人の育った環境、関わっている社会に問題があるのです。環境が過酷で、社会が病んでいるならば、その中で心が病むのは自然な反応だということもできます。そのような人は、病んでいる社会に適応しようと、無理に無理を重ねてきたわけですから。もしそうならば、安心できる環境を整え、ストレスのない社会を用意すれば、「病んでいる」人も、相当程度救われるはずです。
 教会家族という現場が目指しているのは、まさにそのようなくつろげる環境、だれでもホッとできる社会です。それは弱者の弱者による弱者こそが中心となる社会であり、この世から見れば「ちょっとおかしな」集いかも知れませんが、その現場にいる人からすれば、むしろこちらの方が本当の社会だ、ここにこそ健康な仲間がいると言える集いです。
 考えてみれば、だれもが本質的に「弱者」であるはずですし、みんな「強者」を振舞うことに疲れ果てているのですから、ある意味では、疲れ果てて壊れそうになっている人が、教会家族のような場へ「早く社会復帰したい」と言う時代が来ているのかもしれません。

 周りがみんな病んでいるときは、自分の病に気づかなくなります。
 「経済成長」が大事だと言えばだれも反対しません。しかしそもそも、経済は「成長」していいものかどうか、経済にとって、だれをも幸福にする真の成長とはどのような状態であるのか、だれも問いません。そこを問わない社会に必死に適応しようとして、若者たちは不条理劇のような就活で心身をすり減らし、何とか就職できた「勝者」も、非人間的な労働を強いられて、結果、優しい人から順番に壊れて使い捨てられていくのです。
 表向きは美論正論を述べながら、陰では自分の利益だけを追求する権力機構が巧妙に振る舞う社会は、まさに陰謀に怯える統合失調的被害妄想を増長させる、格好の環境です。一国の責任者が有事の恐怖を言い立てる被害妄想や、放射能を管理できると言い張る誇大妄想が、どれだけ人々の心を不安定にし、心の病を重くしていることか。

 教会は、神の国の目に見えるしるしです。現代社会に適応できずに心を病んでいる人ほど、実は霊的にはとても健康なのだという、「さかさま社会」です。たとえ社会からはじかれても、ここにこそ本当の社会があり、ここにこそ信頼できる仲間たちがいると感じられる恵みの場です。世界はこれを模範とし、希望とするべきです。
 世界中で「ここナツ」が開かれるときこそが、神の国の到来の時なのですから。