神様の御業に導かれて(受洗者記念文集)

沖 温子(仮名)

 昨年の春のことから始まりました。

 たまたま同僚と、食事をして帰ることになりました。その食事中の会話の一節に、私は瞬時に反応してしまいました。
 それは、「神様が見ていますよ」という言葉でした。聞けばこの同僚、いつの日にか洗礼を受けたいと願う求道者でした。それもカトリック。私は洗礼を勧めましたが、私自身はまだ洗礼を受けていませんでした。
 振り返れば、母もカトリック信者であり、私自身プロテスタントの教会に通った経験もありました。しかし、いつの頃からか信仰から離れてしまっていました。
 その間、母はいつでも信仰に立ち返れるようにと祈ってくれていました。祈りと共に、さまざまなモーションがあり、その中でも「晴佐久神父さまのお話を聴いたら、教会や神さまのことが、また大好きになると思うから、まずはその方のお話を聴いて、判断して欲しい」と多摩教会ということも告げたそうです。
 けれども、私は頑なにキッパリ断り、二度と教会の話はしないで欲しいとまで言ったそうです。一切振り向きもせず。
 そんなことが何年も続いていたのに、そんな私が職場の同僚に洗礼を勧めるなんて!また、私が多摩教会で受洗するなんて!・・・今でも不思議に思います。
 この時から私たちは同僚ではなく、同じ道を歩む友人となり、それから1年もしないうちに、神様は私を教会へと導くご計画を実行されました。

 職場のことで悩み疲れ、生きる気力さえなくすくらい、つらく苦しい日が続き、そういう日々から脱出したいという思いでいた時期に、「いやしのためのミサ『お帰りミサ』」というタイトルを目にする機会があり、()やされたいと参加しました。
 そこで、あたたか〜いものに包まれているような優しいものを感じ、じわ〜っと心があつくなり涙が止まらず、その時の説教で「私があなたを選んだ」という言葉しか覚えていませんでした。
 心地良いときをまた過ごせたらと思いながら、会場を後にしようとしたとき、「たたきなさい。そうすれば開かれる」と私の中で響き、勇気を出して晴佐久神父さまと話す行列に並び、多摩教会へと導かれ、ミサに集うようになりました。
 その一連の出来事を一番驚いていたのが母でした。

 洗礼式まで、いくつかの段階があり、戸惑うこともありましたが、「何よりも、教会をわが家に迎え入れられることなんだ」という気持ちで洗礼に臨んで欲しい、というお話が受洗準備期間中にあり、安心してここに居ていいんだと大変嬉しくなり、多摩教会に導いていただいたことに感謝しています。
 こうして無事に洗礼の秘跡に(あずか)り、安堵と感謝の気持ちでいっぱいです。
 これから先、さまざまな苦難や困難があっても、神様のお導きを信じて、私にできることを一つひとつ丁寧に積み重ねていこうと思っています。

 最後になりましたが、晴佐久神父さま、入門係の方々、代母さん、そして多摩教会の皆さまに、心からの感謝を申し上げます。
 そして、今までずっと私のことを祈ってくれ、これからもずっと私のことを祈ってくれるであろう母へ、感謝の気持ちを伝えたいと思います。