この数年の間に多摩教会の創設の頃、活躍された方々が亡くなられ、淋しいかぎりである。
鈴木眞一さん、遠藤和輔さん、森崎哲夫さんしかりである。
先日、創立当初、最初の家庭ミサから多摩教会におられた齋藤準之助さんが亡くなられた。
最初の家庭ミサのあと、当時の白柳大司教様と、諏訪2丁目の建物をバックに記念写真を撮ったが、その写真は献堂記念誌の中にも掲載されている。その中に彼の家族をいるが、彼はいない。なぜなら彼が撮影したからである。
彼はこのように、記念写真のみならず、教会の歩みを写真として残してくれた。現在の信徒館1階、2階に飾ってある記念写真はほとんど彼の作品である。大部分はかおり保育園でのものである。多分最初の写真のように彼の姿はその写真の中にはほとんどない。それが、写真家として彼のポリシーだったのかもしれない。
しかし、葬儀の日、聖堂の後ろに数枚の写真が飾ってあったが、その中に寺西神父様と数名でかおり保育園の園庭で撮った写真があったが、その中には若いころの彼が写っていた。それは多摩教会の仲間たちを大切に思っていた証拠のような気がしている。
彼はあまり過去のことは語りたがらなかったが、サレジオ会での修道者を数年間目指していたことを、葬儀の日コンプリ神父が語っていた。そのためか、20数年前になるが奥様の葬儀も調布のサレジオの神学院で行った。もちろん当時の多摩教会はマンションで冠婚葬祭は出来るような状態ではなかった。
その葬儀の2,3日前、悪いけど弔辞を読んでくれない?と依頼された。私にとって後にも先にも弔辞を読んだのは、これが最初で最後である。今から考えると貴重な経験をさせていだいた、と思っている。その時飾られていた写真に、奥様が教皇様からご聖体をいただいている写真があった。お二人でバチカンに行かれ、彼の快心の1枚だったのであろう。
彼は幼稚園や学校と契約して写真の撮影、販売行っていたためか、学校行事のシーズンは行事が重なり相当多忙だったようである。行事が重なったりした場合、撮影者を確保するため、ずいぶん苦労されていたようである。私もカメラマンを紹介するよう依頼されたことが数回あった。
そんなこともあり、先生方との交流も深く、市内の学校の状況などには詳しかったようである。そのためか、多摩市の青少年委員としての活動も彼の活動のひとつであった。青少年委員とは市長が10数人を委嘱し、全市的な見地から、社会教育的に子どもたちを育てていくための施策を行う、委員たちである。
私も彼の紹介で何年か、この委員をさせていただいたが、後から伺ったことだが、信徒の方に青少年委員として入っていて欲しかったから、といっていた。特別に教会と関係するわけではないが、そんなことにも気を使っていたのである。
ちなみに私のあと、落合地区でサッカーを子どもたちに教えていた、柴田氏が受け継いでくれた。
葬儀の日、当時、一緒に青少年委員をやった現在、奈良在住の谷田氏からの心温まる弔電が読まれていたが、彼の人柄が偲ばれ、懐かしかった。
概して、教会の外での活躍が多かった準之助さんだが、教会の外でもそのいくつかに私は立ち会わせて頂いたことに感謝している。
大きな行事にはカメラと三脚を担いで現れる彼の姿をみるとなぜか、ほっとしたのは私だけではないのではないだろうか。