連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第26回

荒れ野のオアシスとなる教会をめざして

鶴牧地区 北村 司郎

 今年の活動方針として、今回も「荒れ野のオアシス教会を目指して」を提案することになった。その話し合いの中で、神父様からカトリック新聞、昨年の11月11日号のある記事の紹介があった。その記事の内容を先ずは紹介させていただく。
 それは「皆が満たされるミサにするために」という表題で、一信徒の投稿記事である。ミサが終わって家路につく人の顔が、うつむき加減で暗い顔で帰って行かれる人が目立つようになってきた。多くの問題を抱えて、ミサに参加しても満たされ、癒されていない。そのことに教会は無関心であって、教会のそのような姿勢そのものに問題があるのではないだろうか。それは修道会の教会よりも、教区の教会の方が敷居を高くしている教会が多い気がする。そんな状況の中で、福音宣教のため主任神父様を中心に、信徒一体になって「荒れ野のオアシス」運動を展開されている教会もあるが、それはほんの一部の教会である。
 教会に来て満たされないで帰る人々に対しての責任は、司祭にだけあるのではなく私たち信徒全員の責任である。おおよそ以上のような内容であるが、ここに書かれた「荒れ野のオアシス教会」とは実は私たち多摩教会を言っているのではないか、と神父様は言われた。このような教会の一般的な状況であれば、私たちの今年の目標も続けることには意味がある、ということである。
 聖書の中には教会と訳された「エクレジア」という言葉は数回しかでてこない。この言葉の本来の意味は「集まり」だそうだ。神様によって呼び集められた人々の「集まり」である。その集まりの中で人は癒され、もう大丈夫、と感じられれば、明るい顔で家路につくことが出来るのであろう。それが教会の本来の姿である。即ち、本来教会はオアシスなのである。しかし、人が集まると、別方向へ歩きだすことも事実である。そのため、敷居の高い教会が出来上ってしまったのである。だから、オアシス教会にするためには、そこに集う人々が力を出し合ってオアシスを意識的に作ろうとしないとならないのである。
 教会の本来の機能を取り戻し、オアシスにするために、次のような提案をしたい。自分の持っているタレントを教会のために使ってみませんか。与えられるよりは与えてみませんか。その方が喜びも大きいはずです。今の多摩教会には皆さんの持っているタレントが必要です。少しずつ教会の仕事を分担すればもっと素晴らしい教会になるのだと思います。
 そして、オアシスに属していることを楽しもうではありませんか。そのようなオアシスには人々が集まってきます。