1年前の今頃は、まさか自分が洗礼を受けるとは、夢にも思っていませんでした。けれど、こうして洗礼式を終えた今、振り返ってみれば、過去に起こったひとつひとつの出来事には意味があり、すべてはつながっていたのだなという不思議な感慨があります。
「風向きに翻弄されない強さを、貫ける信念を、呼吸するみたいに自然に身に付けたい。そういうふうに、生きたい・・・」5年ほど前、当時の自分には受け止めきれない出来事が起こったとき、心底そう願いました。世界の見え方が一瞬にして変わってしまったようで、けれどこのまま暗く閉ざされた場所に倒れ込んでしまいたくはなくて、必死にもがいていました。それからずっと、無意識に、けれど切実に、どこにあるのか知れない答えのようなものを探し求めてきたように思います。
そして昨年の震災後、祈りの場所を求めて教会を訪ねるようになり、その後インターネットで偶然目にした晴佐久神父さまの本の引用をきっかけに、カトリック多摩教会にも出合いました。それまでキリスト教についてほとんどなにも知らなかったけれど、そんなわたしにすら深く沁み入る言葉が、ミサや入門講座ではたくさん語られていました。自分が信仰を持つことを想像したことはなかったけれど、何か大きな流れに導かれているような気がして、洗礼を受けることにしました。
しかし、そこからがまた新たな迷いの日々の始まりとなってしまいました。こんなに惹かれていながらも、キリストを信じるということがなかなか自分のこととして受け入れらなかったのです。信じたいという気持ちと、分からないという問いが、常に拮抗していたように思います。けれど、そんな気持ちを抱えたままでも、教会に行けばいつも、それまでの価値観や幸福観とは違う、そしてそれまでの価値観や幸福観よりもずっと美しい光景を目の当たりにしました。ちっぽけで頑なな自分の想像など遥か超えた体験が、そこにはありました。そんな出来事の連続の果て、今のわたしを縛っているのは自分自身の縄でしかないと思い知った時、ようやく一度は取り下げてしまった洗礼を、再び志願することができました。今はまだちゃんと信じられなくても、これまでと同じ道には戻りたくない、これから先はこういう生き方がしたいという思いからでした。
洗礼式で額に水がかけられた時、確かに新しく生まれ出た感覚がありました。地球ではなく、もっと広い、どこか宇宙のような場所へ。周りが暗く、洗礼盤が青かったからでしょうか。(笑)
あの日、額に受けた冷たい水の感触は、これまでとこれからの確固とした分岐点のようで、きっといつまでも忘れられないと思います。そして自分でも驚いたことに、翌朝の主日のミサで、最前列の受洗者席から後ろを振り返った時に見えたたくさんの笑顔に、突然涙が止まらなくなりました。真っ暗な場所で光を探し求めていた長い日々は終わったんだ、これから先は楽しんでいいんだ、もうひとりじゃないんだ、そう思うと心底うれしく、また全身の力が抜けるほどほっとしました。
洗礼を受けた今も、依然として間違い、迷うことは多々ありますが、そのたびに、こころの中に立ち戻る起点ができたようで、その恩恵の大きさを遅ればせながら実感し始めています。そして、祈りが日常になったことで、本当に大切なことに気付かされ、また随分楽にもなりました。悲しみや悔いを祈りに昇華して、御心のままにと神様に願うことは、自分の頭で必死に考え答えを探し続けてきたわたしにとっては、大きな解放でもありました。
ぎりぎりの滑り込みではありましたが、今年、晴佐久神父さまから29人の同期の皆さんと一緒に洗礼を授かることができ、多摩教会の仲間になれたことを、今はただただ嬉しく思います。神父さまをはじめ、迷っていた時期にいろいろと声をかけてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
冒頭の、いつかのわたしの願いが洗礼という思いも寄らないかたちで、けれど最上のかたちで、叶えられたのだとしたら、あの人生で一番暗かった時期にこそ、神様は最も近くにいてくださったのだと思います。最後まで迷い、一時は離れかけたわたしですらそうであるならば、神様はきっとすべての人に、どんな時でも寄り添い導き続けてくださっているのだと今は信じています。
これから続いてゆく日々が、キリストへの信仰を通して神様の愛のうちに生きる喜びを深め、その恵みを多くの人と分かち合ってゆくものでありますように。