着任してひと月が過ぎました。ひとことで言って、至福のひと月でした。新緑滴る多摩の自然に包まれて、ゆったり過ぎる時間。優しい信者たちに囲まれて、さわやかにミサを捧げる日々。ああ、教会っていいなあと改めてしみじみしています。前の教会がいささかあわただしかったので、しばらくは自分のペースを大事にしながらのびのびと福音を宣言していくとしましょう。
とは言っても、福音を語るには、語る相手がいなくては文字通り話になりません。信徒のみなさんはもちろん、近隣の方々にいたるまでの一つひとつの出会いを大切にすることが始めの一歩です。通りすがりに何気なく立ち寄ってみた人も、救いを求めて勇気を振り絞って電話をかけてきた人も、みんな神様が出会わせてくれた神の子なのですから、ちゃんと出会えばちゃんと聖霊が働いて素晴らしいことが起こります。
そもそも私たちはみんな、その素晴らしいことによって信仰に導かれたはず。福音を語ることは、恩返しでもあるのではないでしょうか。かつてこの私を福音に出会わせてくれたあの人この人への、さらにはその人を出会わせてくれた、神さまへの。
このたび、まずは教会の受付を充実させましょうと呼びかけて閉じていた受付を再開してもらったのも、そんな出会いの素晴らしさを教会全体で味わってほしかったからです。教会の受付はとても大切な機能ですし、大きな喜びを秘めています。それは単なる司祭の留守番や戸締りのお手伝いのことではなく、まさに福音への奉仕であり、キリストの教会の使命の本質に関わることだからです。
心の傷ついた人が恐る恐る教会に電話をかけたとき、受付の人が明るい声で親切に対応してくれたら、どれほど救われた気持ちになるでしょう。興味を持って訪ねた教会で、受付の人が淹れてくれたお茶がきっかけで洗礼を受けたという人も、実際にいます。
そうなってくると、これはもはやただの電話番などではありません。教会の受付は、そのまま天国の受付なのです。であれば、そこで人々を受け付けているのは実はキリストご自身なわけで、私たちはそれさえ信じてお茶を出していればいいのです。「あとはイエスさまよろしく」って感じで。お茶一杯で人を救うなんて、さすがはキリストの教会の受付というべきでしょう。
これを書いている今日の午前中、呼びかけに応えて二人のご婦人が受付の奉仕に来てくれました。そこへ、当教会以外の方が別々に三名訪れました。一人は今年洗礼を受けた男性、もう一人は信者暦の長い女性。そのままならそれぞれお祈りして帰ってしまうところを受付が呼び止めて、台所で即席のお茶会となりました。
ふと外を見ると、また一人たたずんでいます。声をかけると、すぐご近所の女性で散歩中とのこと。立ち話をしているうちに「お手洗いを貸してほしい」と言うので、「どうぞ、どうぞ、うちの教会のトイレは素晴らしいんですよ」と答えたとか。ついでにどうぞと台所に招きいれたところへ、用事を終えた神父が人数分のカステラを持って現れ、にぎやかなお茶会となって話が弾みました。
話はやがて信仰の話となり、信者たちがそれぞれ抱えている悩みを語り出し、神父がそれに答えて福音を語っていると、突然、そのご近所の女性が感動して涙をぽろりとこぼしました。神父はミサにお誘いし、説教集をお貸しして、ぜひまたいらしてくださいと申しあげました。お貸ししたのは、また会うための作戦ですが。
受付がいなかったら、このお茶会は永遠に存在しませんでした。
教会の台所でなくとも信仰さえあればどこでもお茶会は実現できますし、そこで必ず、キリストご自身が福音を語ってくれるでしょう。キリスト者はみんな、天国の受付なのです。