私は姉と弟の三人兄弟の真ん中ですが、実はその下に、生後80日で亡くなった弟がいました。私はすでに中学生でしたので、その誕生と死を良く覚えています。それはそれは小さくて、かわいくて、かわいそうな命でした。
かわいそうというのは、単に短い命だったからというだけではありません。この弟は、一度も母親に抱かれることがなかったのです。当時母は結核を患っていたため、母子感染を防ぐ必要があり、生まれてすぐに母親と引き離されてしまったからです。
結局、弟はわが家では育てることはできず、母が完治するまで近くの乳児院に預けることになりました。学校帰りに会いに行っては抱かせてもらったりして、早く大きくなれよという気持ちでしたが、ある日突然、亡くなったという連絡が来たのです。乳児にはよくある突然死だという説明でしたが、私は今でも心の奥ではこう思っているのです。「弟は、さみしくて死んだ」と。
今でこそ乳児の健康と成長にスキンシップが重要な役割を果たしていることは常識ですが、40年前の乳児院では、赤ん坊はミルクを与えて寝かせておけばいいという感じで、特に抱いたりあやしたりする様子ではありませんでした。数名の職員が忙しそうにしているばかりで、泣いてもすぐに対応してくれるわけではなく、泣き続けている赤ん坊もいたりしたのですが、そんなものかなと思っていたのです。
しかし赤ん坊にとって抱かれることや、あやされることは、自らの存在意義に関る大問題です。とりわけ、母親の優しい笑顔に見守られ、母親の暖かい声に語りかけられ、母親の柔らかな胸で眠ることは、人はまさにそのために生まれてきたというような重要なことであるはずであり、それが与えられないことこそが究極のストレスなのではないでしょうか。弟にとっては、きっとさみしい80日だったのではないかと思うと、もう少しなんとかできなかったものかと、今でも胸が痛みます。
母は入院先で息子の死を知りました。突然何かを告げに来た父の苦渋の表情を見ただけで、ああ、息子がだめだったんだと分かったそうです。その時の母の胸のうちを考えるといっそう心が痛みますが、思えばその母も今は天国にいるわけで、ようやくわが子を思い切り抱きしめていることでしょう。わが子に触れること、それは親という存在の究極の願いであり、母親に触れられること、それは子という存在の絶対の原点なのです。
神と人の関係も同じように、いや、人間の親子関係以上に、そのような究極の願いと絶対の原点で成立しています。神は人に触れたいし、人は神に触れられたい。神は人に触れるために人を生んだのだし、人は神に触れられて初めて生きるものとなり、自分自身になれる。神に触れてもらえないことは、人間にとって死を意味するのです。
だから、神は人に触れました。それが、クリスマスです。
イエスとは神の指先であり、イエスがこの世界内に誕生したということは、神がこの世界に触れたということに他なりません。神に触れられて、この世界は生きるものとなりました。この世界は、その根本の意味において死を克服したのです。人間はもはや「さみしくて死ぬ」ことはありません。神の手に触れられていることを信じるならば。
このたび、わたしの新刊書「福音宣言」が発刊されました。今までも何冊も本を出版してきましたが、今回の本には特別の思いがあります。それは、自分の信仰の原点を明確に示した、ある意味で信仰宣言のような内容だからです。
その原点とは、私は神というまことの親に語りかけられ、触れてもらった存在だという原点です。その喜びと安心の中で、私たちもまた誰かに神の愛を宣言し、苦しむ人々に触れようではないかと呼びかけています。いつかはそのようなことをきちんとまとめて書きたいと願っていたので、今回無事に発行されて、なんだかほっとしています。大げさでなく、遺書を書き上げたような気分です。教会ショップ「アンジェラ」で販売していますので、ぜひ手にとってごらんください。
この本が、神がイエスの誕生においてこの世界に直接触れてくださったという、比類なき愛の出来事クリスマスに連なるものとなりますように。
この本の誕生もまた、私にとってはクリスマスなのです。