巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

充 満 観

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 月初めに塩釜を2ヶ月ぶりに再訪してきました。
 塩釜教会のベースは相変わらず元気一杯で、夏休みということもあって東京から学生たちがボランティアに駆けつけていました。ちょうど着いたばかりの学生たちとおしゃべりしていてつくづくと思ったのですが、ボランティアに来る人ってみんな本当にいい顔をしています。目に、光がある。被災した暗い現場が必要としているのは、まさにそんな光なのでしょう。信者ではない学生たちでしたので、ボランティアの原点はキリストの教えと生き方にある、東京に戻ったらぜひ多摩教会を訪ねてほしいとお誘いしました。
 前回お世話になり、共にミサを捧げた信者さんたちとも再会して、多摩教会からの義援金を直接お渡ししたら本当に喜んで、とても助かります、と言ってくださいました。それにしても、教会をボランティアベースとして提供し続けるのは大変でしょうねと言うと、「最近では、自分の教会なのに、すいません、お邪魔しまーすって感じで入るんですよ」と笑っていました。そんな謙遜と忍耐のエピソードを聞くと、これからもますます応援したくなりました。
 七ヶ浜も再訪しましたが、壊滅的な光景は相変わらずでした。それなりに以前よりは瓦礫の片付き始めているところもありましたが、まだまだ手付かずのように見えるところもあります。同行した青年が、「インターネットのユーチューブで見るのと、ナマで見るのとは全然違う」とつぶやきながら、流された家の跡にポツリと残された炊飯器をじっと見つめていたのが印象的でした。

 確かにナマの現場に立つと、そこでしか感じられないある独特の気配というものがあります。ひとことで言ってしまうとやはり虚無感とか喪失感ということになるのでしょうが、そういう言葉だけではすくい取れない、あまりにも空っぽな気配です。石巻でも釜石でも、南三陸でも宮古でも田老でも、その気配は共通していました。
 あえて具体的なことを言うならば、なにしろまず、とても静かです。本来ならば街が賑わい、車が行き交い、船が出入りして威勢のいい掛け声が響くはずのところが、不気味な静けさに包まれているのです。聞こえる音といえば瓦礫を片付ける重機の鈍い音と、海鳥の声。何かが風にはためいてハタハタと鳴っていると思ったら、いまだに樹上に引っ掛かっている白いシャツ。なるほど、「無常観」というのはまさしくこのような現実の中からつむぎだされた言葉なのでしょう。
 日本人の特徴のひとつと言われているこの無常観は、あまりにも激甚な災害や理不尽な災難から弱い心を守るために、長い年月の中で培われてきたある種の防御反応かもしれません。事実、耐えられない現実を前にして「仕方がない」というあきらめの境地になる以外には、人は生きていくことができないようにも思えます。その意味では、無常観がひとつの救いの道であることは確かです。
 しかし、それに関して、キリスト教はさらなる明確な救いの道を主張しています。あえて造語するならば、「充満観」とでもいうべき信仰の感覚です。要するに、キリストにおいて全存在は神の恵みに満たされており、信じるものはなにひとつ欠けていないという信仰の世界観です。聖書においては、ギリシャ語の「プレローマ(満ち満ちているもの)」がこれにあたります。
 「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)
 「わたしたちは皆、キリストの満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」
 (ヨハネ1・16)
 「こうして、時が満ちるに及んで救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つ にまとめられます」(エフェソ1・10)
 これらの「満ちる」・「満ちあふれる」が、プレローマです。
 キリスト教は、イエス・キリストにおいてこの世界は満たされたと信じます。逆に言えば、キリストにおいて満たされない限り、この世界は欠けた世界なのです。この世においてどれほど富んでいても、それは本質的には欠けた存在であり、逆にすべてを失っても、キリストに満たされているならばなにひとつ欠けていない。
 この天地はすべて、過ぎ去ります。その意味で言うならば無常です。しかし、天地の創造主の愛と、キリストの言葉は決して過ぎ去りません。それを信じるならばわたしたちは充満しています。
 イエスの死後、すべてを失って絶望していた弟子たちに、復活の主が現れて言います。「あなたたちに平和があるように」。この「平和」こそは、何一つ欠けたところのない神の充満です。イエスは弟子たちに、「だいじょうぶだ、あなたたちはなにひとつ失っていない、わたしがいる」と宣言しているのです。
 打ちひしがれている被災地に、地の復興とともに、主の復活をもたらしましょう。究極的にはそれが何よりの支援となるのではないでしょうか。
「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる(プレローマ)豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ3・18-19)