巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

つながりの創造

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 9月初めに、2ヶ月ぶりに釜石を再訪しました。5月から始めた毎月の被災地めぐりもこれで5回目になりますが、どこへ行っても同じように強く感じることがあります。それは、言うなれば「つながりの創造」というようなことです。
 神さまは人と人をつなぐことで、人と人の間に愛を生み出し、その愛のネットワークをもって、目には見えない神の国を創造しておられます。ですから、わたしたちが他者と出会って愛し合ったり、他者を許して受け入れたりするとき、実は神さまの創造の業に協力していることにもなるのです。
 けれども現代の都市社会は、この創造の業にまことに非協力的です。つながりどころか、むしろ面倒な関りを避けるシステムをつくりあげ、独りでも快適に生きていける中毒的環境で人を孤立させ、人のつながりを限りなく阻害してきました。
 そんな中、このたびの大震災において、神さまは圧倒的な御業によって人と人を出会わせ、共感させ、かけがえのない友として結び合わせてくださっています。事実、被災地では人と人のつながりこそが最高の宝です。震災直後は人とのつながりがなければ身体的に生き延びられませんでしたし、たとえ身体的に生き延びても、人とのつながりがなければ精神的に生き延びられなかったでしょう。
 人が独りでは生きていけないようにお創りになった神さまは、このたびの大震災をきっかけにして、わたしたちを人間の原点、すなわちつながりの原点へと立ち返らせようとしておられるのです。

 その意味では、本来的に愛のネットワークである教会こそは、いま最もその真価を発揮すべき時だと言えるでしょう。実際、被災地での教会の働きには、本当に感動させられますし、特にボランティアベースのある教会は現実に人のつながりを生み、育て、つながりの創造に大いに寄与する現場になっています。
 塩釜教会のベースでは、ベース長自ら「何かお手伝いできることがありますか」と、御用聞きのように被災地を回っています。釜石教会のベースは、ベース自体が被災者のサロンとなっていて、心のよりどころになっています。米川教会のベースは小さいながらとても家族的で、ボランティア同士の福音的な出会いの場ともなっています。宮古教会のベースは、仮設住宅の各集会所にテレビを取り付けたり、近隣の被災者の自宅にお弁当を届けたり、本当に細やかなサービスを続けています。どこのベースも大変評判よく、地元から絶大な信頼を寄せられていることを、同じキリスト者として本当に誇らしく感じます。9月から大槌町に長崎管区のベースが開所しましたのでこちらも訪問して来ましたが、壊滅的な現場の真ん中に開所したベースの正面には巨大な垂れ幕がかかっていて、大きく「祈」と書かれた文字が、苦難の現場に希望の福音として輝いていました。

 ご存知の通り多摩教会では、このような現場を毎月、月代わりで応援しています。現地に出向くことのできる人は限られていますが、現地と心をひとつにして祈り、犠牲を捧げ、援助を送ることなら誰にでもできますし、わたしなんかは、そんなみなさんと現地の仲立ちをするのが使命なのでしょう。そのためにわたしは、直接現地に出向いてお話を伺い、戻ってきてみなさんからの援助を募り、再び現地に赴いて直接お届けするという関り方を大切にしています。じかに顔をあわせることが、つながりの創造に参与するための大きな力になると信じているからです。
 今回、釜石教会のベースにみなさんからの義捐金をお届けしてまいりましたが、ベース長が感に堪えないという様子で言ってくださいました。「こうして遠いところを、わざわざ来てくださるというだけで、本当に励まされます。私たちの判断で、被災者のために有効に使わせていただきます」。
 9月の献金は宮古教会のベースのためです。来月、直接お届けにまいりますので、ぜひ今後ともご協力をお願いいたします。

 今回は、福島の被災地にも足を運びました。野田町教会でお会いしたトマス神父様のひとことが耳から離れません。「福島はもはや、日本ではありません」。
 東京の繁栄のために植民地のように犠牲を強いられた福島。いまや誰も責任を取らず、誰もつながらず、誰もそこの農産物を買わない福島。「汚れた福島は、お祓いされてしまいました」。
 来月10月は、バザーの収益金を含め福島のために義捐金を集めますので、みんなで心をひとつにして応援しましょう。福島とつながるために。