巻頭言:主任司祭 豊島 治「救い主を意識したクリスマス」

救い主を意識したクリスマス

主任司祭 豊島 治


 教皇訪日という特別な出来事がありました。スケジュールや会場に対しての扱いなど意見がだされましたが、訪日後の日本の司教団声明では、「訪日の意義を省察し、各地で発せられた数々のことばを読み解いて、分かち合う」ことの勧めを発表しています(※)。私の声明は、元旦メッセージでお伝えすることにします。
 現在、多摩教会聖堂エントランスでは、写真や報道各紙の内容などを掲示した「訪日記念展」なるものを用意しましたので、お立ち寄りください。各会場で話された内容を独自にテープ起こししたハンドアウトも用意しています。1月5日(主の公現)あたりまで行っています。

 教皇さまの長崎ミサが、教会の暦の最後「王であるキリスト」であったので、ご降誕祭の準備があわただしくて、説明不十分になってしまいました。今年は教皇訪日記念展の場でもある聖堂エントランスに、待降節のためのプレゼピオ(ご像)を用意し、25日を迎える一助とし、通常のご像は降誕祭当日になります。どのようになるかは演出の都合上、これ以上語ってはいけないとのことです。

 今年の待降節に設定された促しは、「飼い葉桶に寝かされたキリスト」を直視した上の「居心地の悪さから救いを仰ぐ」でした。
 飼い葉桶のイエス像は、藁が敷き詰められたところに白い布が置かれ、そこに幼子イエスが託されています。幼子の笑顔によって、私たちはふと肩の力が抜け、本来の喜びの感覚を取り戻すことができますが、イエスさまの飼い葉桶の寝心地はどうだったのでしょうか。
 私は神学生時代1年間、乳牛の世話の係をしていました。牛小屋での作業中、ちょっと真似をして藁の上に寝てみたことがありますが、とてもベッドや布団のような感覚にはなれませんでした。ご降誕当時の状況としては最善であったし、父母の最大限の配慮もあったのはわかります。でも「痛い」のです。痛いというのは不快の一つであり、それは「居心地の悪さ」を意味します。居心地の悪さは、私たちを不安に落とします。また、ときには怒りもこみ上げます。
 でも、救い主イエスさまは「寝ていた」と記されています。苦しくもなく、怒り顔でもなく、健やかな姿です。その健やかな笑顔の表情の原点はどこなのか、もしかしたら、私たちは生きてきた過去のつらさに支配されることが多すぎて、疲れてしまっているのではないでしょうか。
 「(多くの人が、人と上手に関わることができずに)ゾンビ化している」
 教皇さまが訪日で残された言葉のうちの一つですが、不安な時代を生きる私たちが笑顔で語り合えるように、主の降誕(クリスマス)を迎え、その喜びを降誕節の間に深め合おうと思います。

*******
( ※ )参 考:
 日本カトリック司教協議会 会長 ・ カトリック長崎大司教 ヨセフ髙見三明 「教皇フランシスコの訪日を終えて 司教協議会会長談話」 (カトリック中央協議会、2019年12月3日)
・・・・ < 文中へ戻る