連載コラム:「大川小学校の衝撃」

= 弱音・不安は神様に預けて、受け入れあう笑顔をもらいに行こう =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第101回
「大川小学校の衝撃」

南大沢地区 加藤 泰彦

 夏休みを利用して、2年ぶりに東北の震災被災地を訪れました。福島県内は、帰還困難区域とそれ以外の地域の差が、より鮮明になっていました。人の気配のまったくない、雑草が生い茂り放題の土地と、除染がおこなわれ人々が住めるようになったところに、ぴかぴかの公共施設が新たに建てられた土地。その差の深まりが、どうにもやり切れない思いを残しました。
 今回はこの福島県に加えて宮城、岩手まで足を伸ばしました。常磐道を北へ、仙台を過ぎて三陸自動車道に入り50kmほど走ったところにある河北(かほく)インターでおりました。一般道に入りしばらく走ると、北上川に沿った道となり、下流に向けてさらに行くと河口まで3.8キロの地点に、宮城県石巻市立大川小学校(跡地)が現れます。周囲にあったであろう集落は、今は殺風景な更地になり、ただ小学校の廃墟だけが大きな傷跡をとどめてそこにありました。
 人間の力をはるかに超えた圧倒的な力の爪あとがそこにはっきりと残されていました。1985年に建てられたモダンな2階建て校舎は、無残な姿でそこにありました。ニュースなどで映像としては何度も目にしていたものの、いざその現物の前に立つと、言い知れぬ衝撃が襲い、思わず足がとまりただ目を閉じて頭を下げるしかありませんでした。
 全校児童108名、教職員13名。地震発生直後、子供達は校庭に集められ避難先の決定をめぐって議論している大人たちを待っていました。まだ雪の残る肌寒い時期に。大人たちの議論はなかなかまとまりません。学校の背後には小高い裏山があります。しかし、そこは雪でぬかるんでいる上、新たな地震で崩落が起きるかもしれない。河口から4キロ近く離れているここまでは、まさか津波は来るはずがない。
 結局避難先に選ばれたのは、学校の西200mくらいにある、北上川に掛かる新北上大橋のたもとの小高くなった場所(三角地帯と呼ばれる。標高は6~7m)。地震発生からこの時点ですでに40分余りが過ぎていました。移動が開始された直後、河口から北上川を遡行してきた津波が襲いました。地震発生から約50分過ぎた15時36分ごろのことです。子供たち74名、教職員10名が亡くなりました。

 石巻市の小学校のほとんどは、子供たちを高台に避難させて犠牲者はありませんでした。なぜ、この小学校だけが全児童の三分の二の犠牲者を出したのか・・・。学校側の責任をめぐって現在も民事裁判が続いています。
 この土地に立って、さまざま思いが頭をよぎりました。この建物をこのような形に破壊してしまった、どす黒い巨大な怪物に出会った子供たちは何を思ったのだろうか。今年の暑い夏の炎天下、そばを流れる北上川は何事もなかったかのように悠々と流れていました。雪の残る3月11日、何が人間の判断を誤らせてしまったのか。止め処のない問いがつぎつぎにわいてきました。考えあぐね、敷地をさまよい、おろおろしていた時、「出発するのでクルマに戻ってください!」の声にはっと我にかえりました。

(画像はスライドショーになっています)