多摩カトリックニューズ発行の11月24日早朝、2025年大阪で万国博覧会が行われることが決定したと、海外メディアからの情報がでました。訴えたテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」。健康で豊かに生きる方法を探る「未来社会の実験場」との位置づけです。
福島県南相馬市にあるボランティアベース「カリタス南相馬」。その運営には東京六本木に拠点を置くカトリック東京ボランティアセンター(CTVC)もお手伝いしていますが、運営委員会の席上、いまなお困難が続く被災地にあるボランティアベースのモットーを掲げる文言を確認するとき、生きとし生けるものを意味する『いのち』の表記が議論になりました。「命」とするか「生命」をいのちと読ませるかという内容です。
教員出身の委員さんは「生命」を薦められ、震災当初から活動している方の一人は「命」を好むという具合になりました。沖縄で使われる「命どぅ宝(ヌチドゥタカラ)」についても話が広がりましたが、カトリック教会の儀式書では「いのち」とひらがな表記となっており、カトリック精神をもってする活動であるので、この会議での結論は「いのち」の表記となりました。
読み手の感覚も多様でしたので、儀式書に依拠する「いのち」として決着したのですが、学説ではいろいろあるようです。近年読んだある学者の説は:
『「いのち」は【生(い)の霊(ち)】の意味からくると推測する。「い」は【生き】であり源は「息吹(いぶき)」の「い」。生のあかしである息吹を儀としているというものである』
ちなみに「命」は:
『古くは「令」からきており、神殿の役人が衣装をいただくとき、ひざまずいて、神託を受けるかたちで、その真意を「令」とし、のちにこの字が「命」となった』
というものでした。カトリック教会儀式書がこの説からとったかどうか、私はそこまで深めることはしませんでしたが、「いのち」には【息吹き】の意味が含まれているとなると、つい現代に生きる私達の社会には息苦しさがあるのを思い出してしまいます。
救い主がこられることを意識する待降節がはじまります。同時に私達にもいつか物事に終わりがあることを意識します。次の世代に生きることの喜びを伝える雰囲気をつくりましょう。そのために息苦しい気持ちで過ごしている人とつながって、生まれた喜びの一面である「神は命の息を吹きいれられた」(創世記)を意識し、「息すること=生きていることの意識」を多くの人と実感する機会が増えますように。
まず、日々の生活のなかで意識した深呼吸の回数を増やしてみてはいかがでしょうか。
それが祈りにつながりますように。
そこから幼子イエスの生まれた風景、誕生からの最初の仕事である息吹の繰り返しを主が繰り返していることを思い起こすことができますように。
そして、この私が神によって支えられている勇気に変わることができるように。
それゆえ 互いを愛せるように。
この期間、いつもより目標を高く設定してクリスマスを迎えましょう。