四旬節にはいりました。ことしの復活祭は4月1日となっていますので、復活徹夜祭は3月31日となり、この日洗礼式が行われます。
四旬節は洗礼志願者の準備の時期となり、また既に洗礼を受けられている方も恵みを新たにする機会です。
四旬節の過ごし方は「愛の献金」「愛のみわざ」「犠牲」「黙想」などいろいろあるでしょうし、四旬節キャンペーンのグッズ内カレンダーにある教皇メッセージを深めることもできます。いうまでもなく、この過ごし方は普段とは異なる場や状況に自分の身をおいて己(おのれ)を客観視するということでもあります。そのなかで多摩教会として、「四旬節福島巡礼(2月22日~23日)」を教会内で広くよびかけて行ったというのは、その趣旨にあっているといえます。
7年前、東日本大震災のとき、私は前任地の秋津教会にいました。大きな揺れを感じ聖堂からガラスが割れる音がしたのです。見ると直径3メートルの円形ステンドグラスが滑落しておりました。詳細にたしかめるため聖堂屋根にのぼると二度目の地震、つづいて余震となり、屋根に上る脚立がたおれ、降りられなくなったのを思い出します。計画停電など世の中が騒ぎ、福島原発の事故と津波被害の恐怖が流布されました。
ちょうど震災一年前にカリタスジャパンの担当になっていましたので、支援に関する仙台教区(宮城・福島・青森県)からの情報を事務局や司教様との間にはいり、そのうち宮城県南部と福島県北側を担当する「カトリック東京教区ボランティアセンター(東京教区直轄)」の運営委員にもなっていました。設立当初は福島往復をよくしていました。初回、現地・南相馬市原町教会委員6名のかたとの会談は、参加者が泣き出してしまうくらい心かよう交流でした。「かわいそう」ではなく「いのちの意味を感じさせる素晴らしい出会いがある」という実感のある場でした。
今回多摩教会の巡礼同行で震災後、福島訪問は12回目。毎回感じるのは「叫び」です。関係する人々の叫びもありますし、大地の叫びもあります。大地の叫びは放射能汚染とはちがいます。いまこの場所の「いのち」が危機にさらされている。人々からの見下され、レッテルづけから解放されたいと叫んでいる、そんな重さを現地に行って帰ってみると感じているのです。ですから翌日身体はぐったりします。でも何かを気付かされるのです。現地に行ってなにか講話を聞いて学ぶのではなく、感じてかえってきます。これは言葉にならない、整理できないものですがずっしりくるのです。何か行動すれば解決するとはいえないくらいのスケールの大きい問題を感じる。この体験をすると祈らなくてはならないということを感じます。
2月22日から23日の多摩教会四旬節福島巡礼については、告知のタイミングなど課題も多く準備も難航しましたが、帰りのバスのなかで特別な「十字架の道行」をしました。強行スケジュールで休みたいのに、この体験をして、まずは神の意向を知りたいという心からの想いが参加者一致の祈りになったという場でした。
教皇様の呼びかけに対して、大司教様からも連絡がありましたが、四旬節教皇メッセージにあるように「主にささげる24時間」の取り組みがあります。今年は「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩編130篇4節を定め、聖体礼拝とゆるしの秘蹟の機会が提供されるようにとされています。多摩教会では2月25日、3月17日、18日、25日の各ミサ前一時間をゆるしの秘跡の場をもうけることにします。少しでもいいから日常の忙しさから離れた場や時間を持ち、心からの想いを回心にのせ、各秘跡を受けるということの絶好の機会です。
「主にささげる24時間」で指摘されている他の実施内容にかんする対応については、ミサ時にお伝えします。
巡礼の詳細や感想は次号の多摩カトリックニューズに掲載されると思いますので、そちらを参照ください。原町教会でのミサ風景のみここに掲載します。