「トマスのようですね」(受洗者記念文集)

増田 賢二(仮名)

 去年の復活祭に初めて多摩教会のミサを訪れました。その日が復活の主日であることも知らずに来たのですが、聖堂を埋め尽くす信徒の方々の熱気に圧倒されたことを覚えています。神様は、この教会で豊かな出会いを私に用意してくださいました。晴佐久神父様がおられるからこそ多摩教会に通い始めたのですが、今では、もし神父様が別の教会に移られても、ずっとこの教会に通い続けたいと思うようになりました。本当に神様の働きは計り知れません。

 入門講座の最初の日、これまで理性を頼りとして信仰を顧みて来なかった、と告白したところ、神父様は「トマスのようですね」と仰いました。およそ一年後、最後の入門講座で、どうしてイエス様は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのか、愛する我が子を決して見捨てない父なる神の御心をイエス様は揺るぎなく信じておられたはずなのに、と質問しましたところ、神父様は「人間側の考えだけで頭がいっぱいになっているから理解できないのです」と仰いました。そう言われても、引っかかるものは引っかかります。要するに、まだまだ私は入門講座を卒業してはいけない、ということなのでしょう。

 そんな私ですが、神様は一人ひとりにそれぞれ果たすべき役割に必要なだけの力をきちんと用意してくださったのだから、与えられた以上の力が自分にないからといって、悩んだり恐れたりしなくても良い、そのことだけは信じられるようになりました。心が焦りにとらわれそうになるときは、すべて御心のままに、と思えるようになりました。それまでの気負いがすっと抜けていくようでした。

 教会に妻や娘を連れて通い始めた頃、私は、彼女たちの足となって奉仕しているような気分でいました。しかし、いまはむしろ逆に、そのようにして教会に導かれたのは私の方なのだと知っています。大学院時代の留学先で親しくなった友人夫妻が敬虔なカトリック信者であることも、幼い日に母が買い与えてくれた『聖書物語』を読んだことまでも、何もかもが、気の遠くなるほど長い道程で、神様がここへ呼んでくださったのだ、と感じています。息子が「いまはいい」と言って一緒に受洗しなかったのは残念ですが、そのことにもきっと何か素晴らしい神様のご計画があるのだろう、とわくわくしています。

 ところで、洗礼式のとき、不思議な体験をしました。水をかけられる直前までは、確かに昇天するイエス様がもっと斜め前方に傾いて、まるで十字架から離れたばかりのようにおられたはずなのに、タオルで顔をふいて、眼鏡をかけ直してみると、十字架と並行に、まっすぐ天をめざして昇っておられるのです。それまで曇っていた私の眼が、洗礼の水とともに清められ、それまでの歪みが正されたのでしょうか。信仰の光と理性の光をともに与えてくださる神様を信頼して、まっすぐ生きていきなさい、と言われた気がしました。