寂しさと孤独感から常に救いを求めてきた半世紀、ようやくカトリックとの出逢いの中で、「幸せ」を実感できる人生を手に入れることができました。
私が長年抱えてきた寂しさというのは、実母と実父からは愛を受けとれなかったこと、そして20代の新婚の時期の夫との死別です。
得られない親の愛を求めては傷つき、いつも寂しさいっぱいの中で生きてきた私は、温かい家族というものに憧れを持ち、信頼できる家族を得て安心した暮らしがしたいと強く願っておりました。
しかし、結婚後、3年と経たないうちに、愛する夫は急性リンパ性白血病で亡くなってしまいました。夫との死別をきっかけに私の死生観はすっかり
ひたすら愛を乞う人生を歩んできた私に変化が訪れたのは、晴佐久神父さまの「福音の村」にたどり着いた夜のことです。その日、福音を読むことにストップがきかず、夜明けがくるまで一晩中、その福音に引き込まれていきました。そこには「聖家族」という温かい繋がりがあり、読み進めるうちに私の中にぽっかりとあいていた寂しさの穴がどんどん埋まっていきました。
そして、まことの親は神様であること、その神様が望んで私を生んでくださったことをその時初めて知り、自分が生まれてきてもいい存在であったことを悟ることができました。
しかし、長年にわたり、自己評価が低く自尊心が育まれずに生きてきた私には、「こんな私が救われていいのか?」、「私なんかが救いを求めて、ずうずうしくはないのだろうか?」という疑問があり、それがなかなか払拭できませんでした。そんな気持ちで晴佐久神父さまとの面談を迎えたのですが、自分を否定する気持ちが面談の最初の数分ですぐに解決していきました。すべての人が救われていい、私を含むすべての人を救ってくださる神様の存在を確信できた瞬間でした。
カトリック多摩教会ではたくさんの素敵な出逢いがありました。
代母さんとの出逢いは、昨年のクリスマス、「ここクリ」のお料理をお手伝いした時のことです。その時初めてお会いした素敵な女性の中に、私は私を育ててくれた大切な祖母の愛を見ました。
代親を決める際、私は是非、私の祖母と同じ笑顔のあの方にお願いしたいと思いました。代母さんとの距離が近くなるにつれ、神様は、私の人生の中のこの大切な時に、代母さんと巡り逢えるよう最初からご計画なさっていたのだ、これは必然だったのだと気づくようになりました。これまでも身近にカトリックがあったにもかかわらず、洗礼までにこれだけの長い年月を要したのも、今、この時にこの代母さんと巡り逢うためだったのだということを痛感しました。
洗礼式で、代母さんが肩に添えてくださった温かい手、額を流れる清らかな水、この感覚は今も鮮明に私の中に焼き付いています。受洗直後に代母さんが私の腕を抱いてくださり、まるで我がことのように喜んでくださった笑顔の中で私は生まれ直すことができて、本当に嬉しかったです。
そして、復活徹夜祭のあと、晴佐久神父さまから「もう寂しくないね」とのお言葉をいただいた時、神様は今までずっと私を見ていてくださったのだということを実感として感じました。
受洗してから大きく変わったことは、自分自身を大切にできるようになったことです。 これまで抱え込んできたとらわれや恐れ、生きにくさと決別し、神の子として生きる自由な人生へと生まれ出ることができました。
私は意味があってこの世に生まれてきたことを、カトリックを通して気づかされた今、尊敬するマザー・テレサの「私のこの手をお使いください。私のこの足をお使いください。私のこの声をお使いください」という言葉をいつも心に留め、愛ある生き方をしていきたいです。
晴佐久神父さまをはじめ、代母のIさん、これまで支えてくださった入門係の皆さま、そして教会で出逢ったすべての皆さま、本当にありがとうございます。
たくさんの素晴らしい出逢いへとお導きくださった神様に、深く感謝いたします。