巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「『自己責任』で背負った十字架」

「自己責任」で背負った十字架

主任司祭 晴佐久 昌英

 ジャーナリストの後藤 健二さんが、通称「イスラム国」の武装グループに拘束され、殺害されたというニュースは、日本人の心に大きな傷を残しました。
 彼の釈放を願い、祈り続けたにもかかわらず、最悪の結果となってしまったことで、多くの人が無力感にとらわれ、恐怖心や嫌悪感、時に応報感情さえも生まれていることは事実です。
 つい先日も、入門講座の中で、一人のご婦人がこの事件に触れ、「あんなに祈ったのにこんな残酷な結果となってしまい、心がとても苦しい。神は何をお考えなのかわからない」と、涙ぐまれたような様子で語っておられました。

 しかし、どんな出来事であっても、われわれキリスト者は信仰の光に照らして受け止めなければなりません。
 第一に、後藤さんを殺害したのは神ではありません。それは、人間です。それも、遠い世界の魔物ではなく、今も現実にこの世に暮らしている、私たちと同じ人間です。認めたくないかもしれませんが、私たちも同じ罪深い人間として、ひとたび悪い環境が整えば加害者となりうる可能性を秘めていますし、貧しい報道をうのみにして、「あんな悪魔みたいな人たちは早く壊滅してほしい」と思っているだけでも、実はすでに加害者に荷担しているかも知れないのです。
 このような出来事を、決して善悪二元論におとしめてはなりません。これは私たち全員の問題であり、私たち全員の回心を促す問題なのです。
 普段そのような「我がうちなる我欲や暴力、復讐心」に気づかずに、自分は正常である、善良であると思い込んでいる人ほど、他者の暴力は理解しがたく、衝撃的に感じてしまいます。しかし、「あんなやつらは軍隊を送って滅ぼしてしまえ」という感情と、「こんな西欧社会はテロで滅ぼしてしまえ」という感情の、どこが違うのでしょうか。
 「神よ何故」と言う前に、「人間よ何故」と問うべきですし、「理解しがたいテロリスト」に震撼する前に、常に自らを正当化し、他者を裁く、「我が内なるテロリズム」や「強者や強国に秘められた隠された暴力」にこそ震撼するべきでしょう。「隣人愛を忘れた人類の罪」に一番傷ついているのは、むしろ神なのですから。

 第二に、後藤さんの死をただ嘆いたり悔やんだりするのは、最も本人が望んでいないことだ、ということです。彼が望んでいたのは、どんな犠牲を払ってでも実現すべき平和、子どもたちが安心して笑顔で暮らせる社会だからです。わたしたちは彼の犠牲を無駄にすることがないように、忍耐強く対話を続け、寛容と共生の道を模索し続けるべきではないでしょうか。
 後藤さんが「話せばわかる」を信念としていたことを、「安易だ」「理想論だ」で片づけるのは簡単です。その行動を「自殺行為だ」「自己責任だ」と批判するのも、簡単です。批判が悪いと言っているのではありません。簡単だと言っているのです。それに比べて、どこまでも弱者の側に立ち、傷つけられる側に寄り添おうとし、和解の可能性を信じて行動するのは、なんと難しいことでしょうか。しかし、クリスチャンである後藤さんの行動原理はキリストにあったでしょうし、「命に至る道」として困難な道を進み、「狭い門」をくぐろうとする以外に、彼にとっての選択肢はなかったのだと思います。
 思えば、十字架に向かうキリストの姿は、まさに「自殺行為」であり「自己責任」でした。しかしそれは、すべての暴力を打ち止めにしようとする「自殺行為」であり、人の罪の責任を問わず、自らが「自己責任」で背負った十字架だったのです。

 キリスト教は、十字架教です。十字架教の信者は、試練の時、困難の時、争いの時こそ、十字架を見つめ、そこに希望を見出します。十字架は、復活の始まりだからです。
 後藤 健二の真の活動は、これから始まります。