目は開かれた(受洗者記念文集)

樽井 (たけし)(仮名)

 2013年3月30日、神様から呼名(こめい)され、額に水を3度受けたとき、ある種次元の違う「気持ちのよさ」を感じていた。初めて味わう、「霊的な何か」である。カトリックの秘跡の凄さ、素晴らしさを実感した瞬間であった。私は真に生まれたのだ。

 2012年2月19日、よく晴れた日曜日、私は初めて多摩教会を訪れた。
 青い空の下に建つ白い教会。そのコントラストの美しさに小さな感動を覚えたことを記憶している。そして敷地に恐る恐る足を踏み入れると、満面の笑みを湛えた老信者の方が、「私の大切なお友達」と言って迎え入れてくださった。
 少しほっとして初めての入門講座に参加。その日はちょうど信徒総会の行われた日で信徒館は超満員。隅の方のテーブルで10数名がすし詰めになって入門講座は行われた。神父様は巡礼旅行から帰ってこられたばかりとのことであったが、お疲れの様子はみじんもなく、楽しい土産話とともにお土産を配られ、初めて参加した私にもお土産のメダイをくださった。
 その巡礼での出来事や洗礼志願式を控えた求道者の方々へ向けたお話を聞いているうちに、何とも言えず穏やかな異空間に身をゆだねているようで、それまで俗世間の沼地でもがいていた私は、何か一筋の光の縄を手向けられたような気がした。

 当時の私は、仕事のことと家族のことで毎日のように思い悩んでいた。
 転職を考えたこともあったが、大学受験を2年後に控えた子供のことを含めた今後の家族の生活を鑑みると、それもできない。また、そんな私を支えてくれるはずの家族は、(今思えば無理もないことでもあり、悪気もないのであるが)事態の重大さの理解が薄く、当事者意識も薄い。
 とうとう私は精神的に一人ぼっちとなってしまったという錯覚に陥り、「いったい自分は何のために苦しんでいるのか? 何のために生きているのか?」といった思いが日増しに強くなっていった。今まで大体のことは自分で解決してきたが、今回の事態は自己解決能力の限界を超えていたのだ。
 気が付くと、インターネットで近くのカトリック教会を検索して多摩教会を知り、電話をかけていた。
 「どうぞどうぞ。おいで下さい」。
 電話に出た方は、先述の、私を満面の笑みで迎えてくださった方であり、のちに代父をしていただいた方でもある。

 初めて多摩教会を訪れてから約1年、(()りつかれたように)入門講座とミサに通い続け、晴佐久神父様から語られる神様のみ言葉をシャワーのように浴びることで、自らに巣食うさまざまな負の思い(悪霊?)が洗い流されていき、希望が湧いてくるのを実感したのだった。
 また加えて、入門係の方々のきめ細やかな優しい心遣いや、入門講座を一緒に受講されていた信者の方々、求道者の方々、そして一般信者の方々との触れ合いの中で、ささくれ立った気持ちが滑らかに(なら)されていき、
 「もうだいじょうぶ。ご安心ください。神様はあなたを愛しています」、
 多摩教会のホームページのトップにある言葉が身体中の細胞に染み入ってきた。
 「だから生きているんだ」。
 「苦しみや試練は天の国へ入るためのプロセスなんだ」。
 いつの間にか、多摩教会を訪れるきっかけとなったことの解は出ていたのだ。

 それからというもの、「明日を思い煩うな」、「互いに愛し合いなさい」、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」といった聖書のみ言葉が生きる糧となっていき、自分が思い悩んでいたことのほとんどすべてを、肯定的に受け入れることができるようになっていったのである。
 「永らく眠っていた私を開眼させてくれた多摩教会で、ずっと目を覚ましていたい。父と子と聖霊の交わりの中にずっといたい」。そう思った私は洗礼を決意し、晴佐久神父様に許可を願い出た。
 「あなたを多摩教会の仲間として迎え入れます!」
 力強く言ってくださった神父様のお言葉によって、今までの人生で一番熱い涙が頬を濡らした。

 ここまで導いてくださった晴佐久神父様、代父様、そして入門係の方々をはじめとする多摩教会の皆様、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません。
 これからは、「福音を語る者」として一生懸命頑張ってまいりたいと思います。どうか末永くご指導くださいますよう、宜しくお願いいたします。
 神に感謝✝

【目次】 2013年 受洗者記念文集

カトリック多摩教会では、2013年復活徹夜祭に25名の方が受洗されました。
受洗を記念して作成された文集のうち、ホームページに掲載を許可してくださった20名の方の文章を、
2013年7月26日から少しずつご紹介してまいりました。
2014年3月10日をもちまして、完了です。

ただ、その内容は古くはなりません。
いつでも、お読みいただけるよう、ホームページには掲載したままにさせていただきます。
これからも、ひとりでも多くの方と福音の喜びを分かち合うことができますように。

なお、無断でのコピー、転載は固くご遠慮ください。

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主任司祭巻頭言

更新日主任司祭巻 頭 言
2013年7月 26日晴佐久 昌英 神父神がその名を呼ぶ

新受洗者(2013年復活徹夜祭)のことば

更新日新受洗者氏名(仮名を含む)タイトル
3月10日樽井 (たけし)(仮名)目は開かれた
2014年2月26日椎野 闘志郎(仮名)それは突然に
11月23日蒼井 春菜(仮名)洗礼
11月14日桜井 琴乃(仮名)もう大丈夫。私は生きていていいの・・・。
11月7日松原 清子(仮名)洗礼の秘跡にあずかって
10月31日青井 かおる(仮名)神のぬくもりによって
10月24日和泉 はるか(仮名)花のしたにて
10月9日本田 静香(仮名)洗礼を受けて
10月2日佐内 美香福音宣言
9月25日マグダラのマリア・飛鳥(仮名)受洗への思い
9月18日奥野 英美(仮名)神様とわたし
9月11日谷合 伸子導かれて
9月5日レイマン(仮名)洗礼までの道のり
8月29日有働 洋平(仮名)洗礼
8月29日桃井 尚美(仮名)生まれ直す
8月21日国広 星児(仮名)神に感謝
8月13日沖 温子(仮名)神様の御業に導かれて
8月6日坂本 宏喜信じる
7月30日宮原 瑠奈(仮名)放浪はおしまい
2013年7月26日光山 真理子(仮名)神様からの愛

 

それは突然に(受洗者記念文集)

椎野 闘志郎(仮名)

 それは突然、私の身に起こった。
 私は、フォーレの『レクイエム』を、混声合唱団の一員として、一心に歌っていた。ちょうど、第2曲「オッフェルトリウム」(Offertorium)の最終部、短調から長調に転調する部分だった。
 すると、2、30センチの台の上からポンと飛び降りて、着地するような感覚、むしろ子どもの頃、母親に抱き抱えられていた身体が、優しくぽっと地面に立たされて、「さあ、いい子だから自分で歩いてね」と言われた時の感覚を足先から膝にかけて感じた。
 専属聖歌隊練習後の、言わば「外部」の合唱団の練習は、すでに暖房が切られ、照明も一部しかついておらず、薄暗かった。
 2月5日、夜9時頃の東京カテドラル大聖堂はかなり寒く、団員たちは皆コートを着ていた。
 「あれ、何?」と、当然思った。思わず、天井を見上げた。
 すると聖堂の天井の一番高い部分から、スポットライトのような、もっと柔らかい、きらきら光る、ちょうどアルミ箔の小片が、真上の一点からの光を受けながら舞い降りてくるような「何か」が、私に降り注いでいるのが見えた。
 「何だ?これは?」と改めて思った次の瞬間、今度はつま先から上半身に向かって、自分の身体の中を、温かい、えも言われぬ気持ち良い感覚が込み上げてくるのを感じた。と同時に、私には全てが分かった。
 「私は、ここで歌うことが決まっていた。ここで歌うために、今までのことがあったのだ」と。

 今から37年前、高校生の私は、通っていた中・高一貫のカトリックの男子校に聖歌隊がないのを不満に思っていた。
 「なぜないのだろう?ミサの時、中心になって歌う者がいないと困るじゃないか」。校内の音楽関係のクラブは、ブラスバンド部とギター部があったが、ブラバンでは大げさすぎるし、ギター部は、フォークやロックばかりで、とてもミサにはなじまない。
 「よし、ないならつくるまでだ」と、簡単に考えた私は、中学からともに活動してきた通称カト研(カトリック研究会)の仲間を中心に、聖歌隊を組織した。一学年200名足らずの学校で、学年を超えて30名程度の聖歌隊が誕生した。
 しかし、一部教師達からは、学校側の未公認の活動であることを理由に、露骨な嫌がらせを受け、友人達の中にも「学校のまわし者、(いぬ)。」と、ののしる者も少なからずいた。
 近くのカトリック教会にも熱心に通った。当時の横浜は、学連(カトリック学生連盟)という組織活動が盛んで、聖書研究を中心とした勉強会や黙想会を行い、そして教会の枠を超えた親睦を深める催しも多数行われていた。
 もちろん私も、メンバーの一人として一生懸命活動した。「一日も早く洗礼を受けたい」と思った。今思い返しても、熱い思いでいっぱいであった。
 なのに、教会の神父様も「まだ早い」と、洗礼を認めてくださらないし、家族からも反対されて、「なあに、認められないならば、戦うまでだ」と、ちょっと意地になっていた。
 当時の私は今思うと、善か悪かの二者択一でしか考えられない価値観と、何々しなければならないという、教条主義的な考え方に支配されていた。当然、他人に対してもミスを認めず、厳しくあたっていた。
 そんなこんなで、大学受験があり、就職があり、社会人となってからは、休む間もなく働く毎日。いつの間にか結婚して、子どもが生まれて、ますます休む間がない毎日。あれほどまでに熱心に通った教会も、あれほどまでに熱望した洗礼も、日々の生活にすっかり追われ、全く意識から消え失せてしまった。
 たまに思い出しても「あれはちょうど、熱病みたいなものだったんだな」ぐらいに思っていた。

 ところが今から4年前のある日。
 私が仕事から帰宅すると、高二の息子がえらくはしゃいでいた。理由を尋ねると、通っている学校の高三を除く全学年で行われた合唱コンクールで自分のクラスが一番になったという。
 息子の話を聞いた瞬間、息子と同じ年齢の自分の姿が思い出された。
 あの時、非常勤の合間を縫って、聖歌隊を無償で指導してくださった音楽の先生に、急に会いたくなった。いてもたってもいられないほど、無性に会いたくなった。
 早速インターネットで調べた。何と先生は、私の住まいのすぐ隣、国立で、混声合唱団を指導していらっしゃるではないか! 早速、合唱団の練習場所と日時を調べ、練習の終わりを見計らって、会いに行った。
 すると先生は、「皆さん、私の30年来の友人です」と私を紹介して、それを聞いた団のメンバーは、歓迎の歌まで歌ってくれた。
 「いいえ、違うんです。わたしは入団するつもりは・・・・」。
 どうしたことか、あれよあれよという間に、合唱団に入団してしまった私。
 すると次に、聖歌隊で先生が不在の時の指導と、電子オルガンを弾いてくれた同じ学年の友人に会いたくなった。これまた、いてもたってってもいられないほど。
 そして何と何と、彼は私の家のすぐ近くの(多摩)教会に毎週来ているではないか!不思議なことが、よく続くものだなと、思った。
 その彼とも、高校卒業以来実に32年ぶりに再会し、私自身は教会に通うようになったわけではないが、メールで音楽を中心とした話題をやり取りするようになった。

 そして去年、東日本大震災からちょうど1年にあたる3月11日、亡くなられた方を追悼し、被災地の復興を祈念する、チャリティー・コンサートが、東京カテドラルで行われることとなり、私の所属する合唱団が、被災地であり、また、今日もなお原発による放射能に苦しんでいる南相馬の合唱団とジョイントで出演することが決まった。
 このリハーサル中に起きたことが、冒頭に述べた内容である。
 復興祈念コンサートも、大変な感動のうちに無事終了し、私はこの間、自分の身に起きた神秘的な体験を、教会に通う友人に語るために、多摩教会を訪れた。
 去年の4月8日。復活祭の日である。
 私は、友人の彼と、神父様にできる限り正確に、写実的に述べたつもりである。もっともかなり興奮して。
 神父様は、次のように言われた。友人が私に語ったのと全く同じように。
 「それは、間違いなく聖霊の働きです。音楽を媒体として神様があなたを導いて下さった。今あなたが教会に来たということは、そういうことの証しなのです」。
 そしてその証しを、もはや疑いようのない事実として、私が認めざるを得ない出来事が続いて起きた。教会に来た1日目の私に。
 それは「神父様叙階25周年、銀祝のお祝いコンサート」のお手伝いとして、私も歌わせていただくこと。
 なるほど、私があの練習中寒さの中で感じた直感はこういうことであったのか。
 音楽と私の周囲の人を通じて、私は神様に間違いなく導かれたことを確信した。

 「神様、長かったこの37年間という歳月も、本当に意味があるのですね。私は、もうあなたのことを忘れません。そしてそのあたたかい愛の中に生きていることを全身で感じとることができるようになりました。本当にありがとうございます。
 これからは自分で何々しなければならないと自分を追い詰めるのではなく、神様がお示しになる声を、祈りの中で聴き、見るように致します。全ては御心のままに。アーメン!」

洗礼(受洗者記念文集)

蒼井 春菜(仮名)

 今、わたしの手元に4冊の本があります。
 「くまちゃんといっしょ」という可愛らしいお祈りの本です。小さいころ大好きで、枕元に置いて寝ていました。お祈りの意味もよく分からなかったと思うのですが、母が寝る前に読んでくれていました。
 私が好きなお祈りは、
 「かみさまといっしょにいるのはほんとうにうれしいこと。かみさまはわたしのともだちわたしのせんせい。」というところです。

 振り返ってみると、わたしのそばにはいつも神様がいらっしゃいました。
 聖母病院で生まれ、初めての写真はマリア様の像の下で写っています。キリスト教の幼稚園に通い、毎日お祈りをして聖劇もやりました。中学からカトリックの学校に通い、キリスト教についても勉強しています。

 神様は身近ではあるけれども空気のような存在で、あまり深く考えたことはありませんでした。教会に何度か通ううちに、もっと神様について考えてみようと思い、受洗しました。
 これから神様について考えるチャンスをいただいたのだと思っています。まだまだ分らないことが沢山ありますので、どうぞいろいろと教えてください。
 締め切りを過ぎてしまったのに、受洗を許可してくださった晴佐久神父様、入門係の方々、ありがとうございました。

もう大丈夫、私は生きていていいの…。(受洗者記念文集)

桜井 琴乃(仮名)

 洗礼式を終えて、最初に思ったことは、「ああ、ホッとした・・・。無事、洗礼の秘跡を授かることができて本当に良かった・・・」と。

 洗礼式を前に家族(ペット)が入退院を繰り返し、手術をし、看病し、仕事はハードで夜中に出かけ、夜中に帰ってくる状態で、心身ともに限界状態でした。そして疲労と心労がたたり、もともと重い持病がある上に病気にかかり(それでも、ペットの治療費を稼ぐために休暇を取ることができずに仕事に行っては倒れの繰り返しで)志願式もリハーサルも出席することができませんでした。ですから、神父様をはじめ、入門係の皆さまには、私が本当に洗礼式に来られるのかと、本当に多大なご心配とご迷惑をおかけました。

 さて、私が初めてこの多摩カトリック教会に訪れたのは、昨年の11月でした。それまでは、プロテスタントの教会に通ったり、別のカトリック教会で勉強を続けていました。その別の教会で多摩カトリック教会への誘いを受けて、今、私は神の子として生きることになりました。

 そもそも教会という所に興味を持ち始めたのは、高校を卒業し、上京した先に教会がいくつかあり、もともと仏教の幼稚園に通っていたり、友人が熱心な仏教信者で、説教やお寺によく出向いて話を聞いたり、お寺にいたりしたことで、教会という所がどんな所なのか興味を持ったのが始まりでした。ふらっと教会に立ち寄り通ってみると、とても新鮮で興味はどんどん増していきました。そしてキリスト教の教えが心にスーッと入ってきたのです。今まで感じたことがなかった癒しがそこにありました。そして私もいつかクリスチャンになれたら・・・という思いが強くなりました。
 しかし、そう思った理由が他にもあるのです。

 実は、自分が生きていることに全く自信のなかった私は、常に生きていることに罪悪感を持っていました。
 物心ついてから思春期まで褒められたことは一度もなく、母親に甘えたことも、ほとんど皆無でした。母親いわく、私がとても変わった子(周囲の人間も末恐ろしい、度し難いと言っていたそうです)だったという理由からずっと虐待(言葉と暴力)を受けてきました。常に「お前はゴミだ、害虫だ、ハイエナだ、霊付き子、殺してやる」と言われ続け、心と体の傷は今でも残っています。母はしょうがなかったと今でも言っています。私たち母子の関係は今でも良くはありません(昔ほどではありませんが・・・)。
 私は幼い頃に父を会社の事故で亡くし、18歳になるまで母と暮らしていましたが、その間ずっと「私は愛されていない。いつか本当に殺されてしまうのではないか。だから、早く家を出よう」と考えていました。そう、まだ幼い私が本来考えるはずもないことのはずです。

 晴佐久神父様は、ミサや入門講座でたびたび、「私たちはすでに赦されている、だから、もう大丈夫ですよ」とおっしゃっていました。私はその言葉にどれだけ救われたか。その言葉を聞いたとき、クリスチャンになれたらいいな、という思いから、「私、クリスチャンになる!」と決心がつきました。

 洗礼式を終えて、私は神の子となり、今、自分にこう言い聞かせています。「もう大丈夫、私は赦されている。だから生きいてもいいの・・・」と。
 ただ一つだけ悲しいのは、洗礼式を見に来てくれた母が、私がクリスチャンになったことに理解を示してくれないことです。洗礼を受けるにあたって、もちろん母に相談し、許しも得ました。しかし、本音は反対だったそうです。それを知ったのは、洗礼式を終えた後のことでした。私たち親子はこうもすれ違うのだと涙がこぼれました。
 現在、母は「もう、虐待はしない、手を上げない」と決めているそうです。けれども、肉体的な暴力こそ受けてはいませんが、母の口から出る言葉は刺々(とげとげ)しく私の心に突き刺さります。言葉の虐待を今も続けていることに、本人はまったく気付いていません。

 私はそんな母を見て、少し不安を覚えています。「人はやはり変われないのか」と。「もう大丈夫、私は赦されている、だから生きていていいの・・・」心から私がそう思える日が本当に来るのか、そして、神の子となった私が、母を変えられることができるのかと・・・。
 重い持病よりも、もっと重たい何かが私にのしかかります。

 「もう、大丈夫、もう大丈夫」、そう、まるで呪文のように唱えながら、今日も十字を切っています。
 そしていつか、私の心も体も「生きる強さを持つ」のだと。
 今日より明日、明日より明後日・・・神の赦しと救いを受けながら・・・神を信じ、生きていくのだと決めたのですから。だから「もう、私は大丈夫」。ねっ、神様っ!

洗礼の秘跡にあずかって(受洗者記念文集)

松原 清子(仮名)

 3月30日復活徹夜祭で、晴佐久神父様が私の額に勢いよくご聖水をかけてくださり、『あなたの息吹を受けて♪』 私は新しくなりました。

 幼稚園から大学まで、カトリックの学校に通いました。幼稚園でマリア様に出会い、お誕生日にさずかったおメダイを大切にしていました。子どもの頃は毎晩、神様とマリア様に今日一日あったことを報告し、皆が幸せであるようにお祈りをしていました。
 しかし、ある時期から、心がこわれるようなショックな出来事がいくつも重なり、いくら祈っても神様は私の声を聞いれてないのではないかと不信を抱き、祈ることができなくなり、神様から離れていました。今思い返すと、魂が神様につながっていない、暗闇のような時期でした。

 20代、ヨーロッパのカトリックの聖地や巡礼、黒マリアに興味を持ち、導かれるようにして、何度か旅をしました。サンチャゴ・デ・コンポステラへの道、ルルド、ファティマ、フランスのロマネスクの教会めぐり、アイルランドの修道院、大西洋の孤島スケリングなど。これらの旅を通し聖霊が働き、神様とのつながりが深いところで回復しました。その後、次第に自分の使命が明確になり、少しずつ自分の人生を取り戻していきました。
 そして、10年位前、東京カテドラル内のマリア像の前でひざまずくと、涙が止まらなくなりました。深い魂の底からの涙でした。その夜、東京の夜空に流れ星を見ました。マリア様にずっと見守られていたこと、それを受け取る時期が来たお印と理解し、マリア様のもとで心の告白をする時間を定期的に持つようになりました。
 2012年、旅行先のブルガリアのボヤナ教会で、ふいにキリストの愛に触れる体験がありました。無償の愛への鍵は、イエス・キリストにあると深いところでわかりました。
 同年6月、五島列島へ旅をし、多数の教会とルルドをめぐりました。井持浦教会のルルドで夜、マリア様へ祈っていると「さあ、次へ行きなさい」と押し出されたような不思議な感覚があり、シフトの時期を感じました。

 そして、10月28日、さまざまなめぐり合わせに導かれて多摩教会のミサにあずかりました。神父様を通して神様の言葉が直接私の魂に響き、その後も数日かけて愛と喜びが全身全霊に広がってきました。神様に愛されていることを初めて心と体と魂で感じました。この体験の意味を求めて、ミサと入門講座に通うようになりました。
 そして、12月24日聖誕のミサで、自分を空っぽにして、神様の大きな愛にすべてをゆだねることにしました。今までの数十年は、洗礼に向けての準備期間で、すべては神様のご計画だったと腑に落ちました。
 それから、洗礼までの3カ月、教会の皆さんとのつながりや世界に広がるコミュニティからの祈りを受け取り、カトリック=普遍という意味が少しわかってきました。

 洗礼名は、いつも寄り添い見守ってくださったマリア様と、心から敬愛するアッシジの聖フランシスコからあずかりました。
 折しも、新しい教皇様がフランシスコの名前をお選びになり、この偶然に歓喜し、神様の御心に添えますようにと、祈りました。

なぐさめられるよりなぐさめることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
私が求めますように

 聖フランシスコの平和を求める祈りとともに、喜びと感謝のうちに、あたらしい一歩を歩きはじめます。

神のぬくもりによって(受洗者記念文集)

青井 かおる(仮名)

 いろんなことがあって、人生に行き詰まりを感じていたときに気づいたのは、自分と自分とのギャップで、時々自分の気持ちがわからないということ。自分の感情表現が、自分の気持ちとつながっていないことで、人間関係に微妙な誤差を生んでいるような気がしていました。周りの人にとって、わたしのこの微小な差異は、取る足りないことかもしれませんが、わたしにとっては、自分の基盤にあるズレなので、このまま進んではいけないと感じました。

 義姉から聞いていた晴佐久神父さまの本を読み、高円寺の教会へ行ったのが最初でした。気持ちがほっこりしたことを覚えています。その日は、高円寺最後の日だったため、多摩教会へも来てみましたが、通うには遠く感じました。友人の結婚式のために、京王永山駅に来る機会があり、あらためて、この距離であれば通える気がしたのが、昨年の4月でした。
 通うのであれば、神父さまの教会へ通いたいと思い、最初は、友人と一緒に遠出ついでに、帰り道に高尾山に登ったこともありました。9月からは、ミサの後で入門講座に参加しました。ミサでのお説教と、入門講座でのお話しを聞いていると、いつも心の詰まりが流れるようで、神父さまのお話は、いつも一貫して、神さまの温かさを伝えてくれました。

 そして、ある日のミサで主の祈りを歌っていたときに、変な言い方ですが、本来の自分の声を感じたことがありました。
 その時、自分の心がほぐれてきたのだと思いました。本来の声とそうでない声の違いは、いつも表面的な自分が、深層部の自分を守ってきたのだと思います。鏡や、ガラスなどに映る自分を見るとき、そこに映っている自分に違和感を感じることが多々ありました。それはかすかなノックとして、心に響いていました。それでも、生活に支障を来しているわけでもなく、それなりに生きているつもりだったので、気を張って、気を使う自分で生きてきました。でもそれは、あくまで自分を守るために長い間なじんだ自分の生き方なので、たとえ傷ついても、本来の自分で生きるべきなのだと感じ、神と自分とひとつになりたいと思いました。
 ひとつになりたいと望んでいる自分は、表層の自分のような気がしましたが、神さまは、ご自身がわたしとひとつとなりたいと望んでいると語ってくれました。神さまがすべてを導き、生まれる前からすでにすべてを知ってこの洗礼に導いてくれたことを、あらゆることを通して教えてくれました。わたしは、土から造られ、土に帰るものではなく、神から出て、神のもとに帰る、天に凱旋する者にされたのだと思わされ、やっと人生の起点に立てた気がしました。
 洗礼式はわたしがいつも立ち戻れる原点となりました。

 受洗後は、今まで自分で自分を守ろうとしてきたということが一層よくわかり、守られている感覚が気持ちの目盛りを上げてくれて、幸福感に包まれて生活しています。

花のしたにて(受洗者記念文集)

和泉 はるか(仮名)

 ねがはくは 花のしたにて 春死なん
  そのきさらぎの 望月の頃

 僧の西行の歌です。イースターは春分後の最初の満月の次の日曜ですから、旧暦では如月(きさらぎ)2月の満月の頃と申し上げても、特に今年の場合は差し障りはないでしょうか。復活徹夜祭は川べりの桜が見事な夕べでした。私は「花のした」でこの世の限りある命ではなく、新たな永遠の魂を授かりました。

 花の宵 光あれとの 声聞こゆ
  道進む本意 かなひぬるかな

 西行に倣って私も詠んでみました。拙い作ではありますが、受洗後の素直な気持ちです。
 ミサの説教の中でも取りあげていただいたのですが、私は中学生の頃にイエスさまの夢を見ました。当時の私はプロテスタント教会に通っていました。夢の中では、白い衣を着た方が白く続く道の入口に立っていらっしゃいました。道は緩やかな登り坂で左に折れ曲がり、その先は見えません。白い衣の方は名乗られたわけではありませんが、私は直感的にイエスさまであると思いました。
 イエスさまはおっしゃいました。
 「この道の先にあなたの未来がある。あなたはここを進みたいですか」と。
 しかし私は、逡巡の末に断ってしまったのです。
 するとイエスさまは、
 「それでは早くあなたの道にお戻りなさい。○○が来る前に」とだけお応えになり、その後は白い道の奥をご覧になったまま、もう何もおっしゃいませんでした。
 何が来る前になのか・・・聞き漏らしてしまいましたが、私はその場を走って逃げ去り、息を切らしながら目を覚ましたのです。

 それから30年が過ぎてしまいました。その間、神さまは、あの手この手で私の心に働きかけてくださっていたのだと今はわかります。幾度となく受洗の機会はありましたが、どうしても一歩を踏み出すことができませんでした。私は「一神教」にとらわれすぎていたのです。イエスさまの道に進みたいけれども、それは他の道をないがしろにしてしまうことのように考えていました。
 「家を継ぐことは墓を継ぐことだ。だから俺は家を捨ててきた」。通っていた教会には、このように言う青年もいました。わが家も祖父母のお墓は仏式です。私は自分が将来、墓守になることを自覚していましたから、キリスト教を信仰すると宣言しきれなかったのです。

 カトリック多摩教会に来ることになったのは、さまざまな偶然の結果のようにも見えます。でも、神さまのご計画どおりだったのかもしれません。つらくて悲しいこともたくさんありましたが、すべてが必然だったのでしょう。涙を流すことがなかったら、もっと遠回りをしていたと思うのです。そして、ここに来た最初の日に、すべての迷いは消えました。
 晴佐久神父さまは、「本物の宗教なら同じところに通じている。そしてこの世のことは形式的なもので、キリスト教を信仰しながら仏式の墓を守り続けても、まったく問題ではない」と教えてくださったのです。

 イエスさま、長いことお待たせいたしました。それとも全宇宙の時間からみれば、桜が咲いて舞い散るまでぐらいの、ほんのわずかな間だと言ってくださるでしょうか。
 私は「○○が来る前」に戻れたのですよね?