皆様は、年末年始をどのようにお過ごしになられたことでしょうか。私は多摩教会で初めてのクリスマス。そして大晦日から元旦と皆様と祈りを共に出来ましたことを特にありがたく感じました。また、元日ミサの中で、皆様の幸いと平和をお祈りいたしました。 皆様方も、それぞれの場で一年のことを祈願なさったことでしょう。時間の流れは速いもので、今年ももうずいぶんと過ぎていってしまいました。
ある日曜、主日のミサに観想修道会で過ごしている方が、北海道からわざわざ私に会いたいということで多摩教会にいらしてくださいました。彼は車の免許を取得せよという命令をうけたためしばらく東京にいて、その都内滞在先からわざわざ3時間もかけて10時のミサに間に合うようにいらしたのです。普段は北海道の山のなかで、祈りと労働の日々を過ごし、気分転換になる刺激的な出来事もあまりないところで生活しているのに、とても充実している表情をされていました。
「幸せになりたい」という願いは、私たちに共通する根源的な欲求です。何を買うか、何を着るか、どこに住むか、どれを食べるか、誰と暮らすか。どれも「もっと幸せになるために」選び、決断します。多摩教会では今年結婚式が予定されていますが、結婚とは「幸せになるために」するとても大きな決断でしょう。結婚式というイベントでなくとも、私たちは毎日、いや毎瞬、毎瞬、幸せを願い、探し、選んでいると言えるかもしれません。では、「何が私を本当に幸せにしてくれるもの」なのでしょうか。社会や世間がもてはやしているものを手に入れることが、本当に私にとって価値ある幸せの保証なのでしょうか。それがないと不幸なのでしょうか。
もし、神様に、「がんばっているあなたにご褒美として、幸せになるために三つの願いをかなえてあげよう」と言われたら、私は悩むでしょう。何を求めたらよいのかと。どうなったら幸せになれるかと。
次のように即答できれば幸せです。「このままにしておいてください。いまある人との絆を大切にできれば」。それは世間から見たらちっぽけな、ささやかな幸せかもしれませんが、現状の自分を受け入れられることは本当に「幸せ」なことだと思います。
自分は「幸せになってはいけない!」と決めてしまっている方がおられます。あんな事をした自分は、あんな否定的な扱われ方をした自分は幸せになる資格がないと決めてしまっている人がいます。
神の赦しと慈しみから除外されている人はいません。救いの泉から外されてしまっている人は一人もいません。
まずは、私を赦してくださっている神に自分で安堵することから始めましょう。そして自分を赦すこと、自分を認め受け入れることができたら、隣人へのまなざしが優しくなることでしょう。 そしてより多くの人を招きましょう。
2月からはゆるしの秘跡や再認識のチャンスが多くあります。赦しと和解の恵みが皆さんのうえにありますように。
【 連載コラム 】
「荒野のオアシス教会を目指して」
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第73回
「生後三日目の洗礼」
去年の10月、私はふるさとの平戸に行ってきました。年老いた兄夫婦が元気なうちにという思いと、懐かしさで、長崎で行われた研修会を終えて、バスと車で3時間もかかる平戸に向かいました。親はもういなくて、家もありませんが、まず自分が育った家の跡地だけでも見たくて、目的の兄の家より先に行きました。
私が育ったところは、左前方に
初めて見る水色で塗られた橋は、空と海と大自然に溶け込んだ美しい橋でした。丘の上の教会の庭に設置されたファティマの聖母と牧童たちが私たちを迎えてくれました。お御堂の中は、左右と後ろの壁はステンドグラスを思わせるような南米から取り寄せたという色とりどりのちょうちょの羽で飾られていました。毎日見慣れていた島は、教会も庭も聖堂内も、また島全体もオアシスでした。
この教会の出身者の中に、毎年、9月28日に祝われる聖トマス西がいます。1634年11月11日に処刑された69人の中に、二人の神父様がいました。その中の一人です。この69人の殉教者たちは、26聖人たちと同じ西坂の丘で斬首、火あぶりで殉教し、二人の神父様は穴吊りにされて殉教しました。教会の近くには、「黒瀬の辻殉教地」があり、神父様のお父様が殉教したところでした。目の前には、海と無人島が見え、この島で大勢の人の拷問、処刑が行われたそうです。
何も知らずに、この島に来た私は、恵みとショックを同時に受けて、生月を後にしました。やがて、見慣れた平戸の無人島の前を通るとき兄が指さして、この島でも大勢の人たちが拷問処刑されたと教えてくれました。私の生家の近くの浜でも、殉教者の血で海が染まったといわれている場所があります。
久しぶりのふるさとにワクワクしながら旅立った私は、一週間後には、多摩の自宅で400年前に起こっていた出来事に深い感銘を受け、殉教者の苦難と受難を思い、祈りのうちに、涙と恵みに浸されました。ましてや、私たちがキリストの受難を思うとき、どれほどの恵みが注がれてくることでしょう。
主が聖ファウスティナにおっしゃった言葉が思い出されます。「私の受難を1時間黙想する方が、血を流す鞭打ちを1年間行うより、もっと多くの功徳がある」。
私の田舎では、赤ちゃんが生まれると、洗礼はいつ授けていただくかと、まず洗礼のことを心配していました。私は生後3日目にその恵みをいただきました。第一に信仰、死ぬも生きるも、主のためとの先祖の思いの行動だったのだと感謝しています。
この世のものにはとらわれず、主と聖母を愛した殉教者、聖人たちにならい、この世で最高のオアシスである主と聖母の二つのみ心の中にいつもとどまり、養い育てていただきたいと思います。
【 寄 稿 】
巡 礼
きっかけは、昨年、巡礼で八王子教会を目指した方が誤って多摩教会に来てしまい、「八王子教会への行き方教えて」と声をかけられたことでした。その時初めて、平成28年が巡礼の年であること、指定された教会がいくつかあることを知り、是非行ってみたいと思いました。昨年3月のことです。
それから半年以上たった11月16日、TさんとUさんと3人で出かけました。3人で出かけるのは初めてでしたが、電車に乗った途端おしゃべりが始まりました。各々の信仰との出会いとか、通っていた教会のこととか、とりとめなく話は尽きませんでした。昼食は築地でお寿司と決めていましたが、お店がなかなか見つからず困りました。でも一番の楽しみだったので執念で見つけました。とっても美味しかったです。
築地教会は3人とも初めてでした。立派な聖路加病院の傍らにひっそりと建っている姿、ギリシャ建築のような4本の柱が印象的でした。
16、19日と2日間、カテドラル、イグナチオ教会の納骨堂、神田教会の強烈なステンドグラス、歴史を感じる八王子教会の聖堂。ミサに出席するのではない見学は新鮮でした。
昨年夏、夫と巡礼教会のひとつである西千葉教会を訪ねました。久しぶりに会う旧知の小林神父様からお話を伺いました。「今年は、50年に1度の巡礼の年で、巡礼に行くとすべての罪が消えるの。素晴らしいでしょ」。まったく意味が分かりませんでした。帰る途中、夫に聞きました。「あれってどういうこと?」「そういうこと。誰でも罪があるから。罪のない人はいないから」やっぱりわかりませんでした。
11月の巡礼が終わって2、3日して、ふわっと浮かびました。「リセット」、このことかな? 神父様の言われたことって。「これだ!」と思いました。
新しい自分。過去に執着しない日々。巡礼ってこういうことかと思いました。行かなかったらわからないことでした。
数日後、私たちが巡礼の計画をしていた時に、そばで聞いていた人に会いました。「巡礼に行ってきたのよ」と話したら、「お寿司美味しかった?」と言われました。楽しい教会です。
【 お知らせ 】
新年1月6日(金)初金ごミサのお説教で豊島神父様は、「身体の痛み、不調など、人生で出会う不快なことを私たちはどのように受け止めたらいいのでしょうか。神様のご計画は、『永遠』という尺度のもとにあります。『永遠の命』をいただいている私たちは、一日一日、永遠を見つめて過ごしましょう」とお話になりました。
続いての初金家族の会は正月休みの予定でしたが、特に豊島神父様が去年4月の熊本大地震災害後のカリタス福岡・熊本支援センターの援助活動について、信徒会館でスライド上映をしながら報告してくださいました。
ボランティア活動は山のような瓦礫やごみの処理、おにぎり作りなどの炊き出し、風呂場作り、トイレの清掃、農業支援など多方面にわたり、若者たちは日頃の夜回り体験などを生かして大活躍、被災者との会話を交えての作業ぶりで、安心感、励ましを届けました。多くの皆さんから物心両面の支援もあり、カリタスの活躍が地元からも大きく評価されたというご報告でした。
次回、2月3日(金)のごミサのあと、午前11時前頃からお昼までの初金家族の会では、国連や在日の外国政府機関で30年以上にわたり広報業務を担当なさっている信徒の方が、ご自身の貴重な体験談を披露してくださる予定です。どうぞご参加ください。