オリンピックの夏。 活躍する様子が紹介されるテレビ番組が多くありました。 厳しいトレーニングを積んだ方々が、多くの人の希望を背負いながら様々な葛藤をもって示す姿が映し出されています。
オリンピックの盛り上がりで忘れそうになりそうですが、先日あった二つの衝撃的な事件について信仰者の私たちはどう受け取ったらいいのでしょう。
一つは相模原市の障害者施設津久井やまゆり園で起こった殺傷事件です。犯行の手口、被害者の数も衝撃的でしたが、何よりも犯人(被疑者)が障害者の生きる権利を否定し、殺害を肯定する考えをはっきりと持っていたこと、そしてそれを実行に移したのだということが衝撃でした。
もう一つはフランス・ノルマンジー地方の小さな町の教会襲撃事件。ISのテロは繰り返されていますが、特に今回の標的はカトリック教会そのものであり、ミサの最中に教会が襲われ、ジャック・アメル神父という84歳の司祭が殺されたこと。特別にわたしたちカトリック信者にとって衝撃的なことでしたが、こちらも確信犯でした。
これらの報道は私たちに言葉にできない衝撃を与えました。立場はちがっても共通して経験しているのは、長年かけて踏み固めていた信頼の基盤が大きく揺らぎ、「自分たちがこれまでしてきたことはなんだったのだろう」という無力感に襲われるという点です。日常、車いすをつかって往来をしている方は「いつか攻撃されるのではないか」という恐怖がでてきたといいます。この事件を思想統制とか、安全管理とか、薬物の厳罰化や医療制度の改編で対応することでは足りないかと思われます。
先月のニューズで紹介しました映画「さとにきたらええやん」をみてきました。その子どもの言葉には、リーマンショックや株価の上下で悩んでいる子どもはいないのです。みんな未来に恋をしているようです。「将来はケーキ屋さんになりたい」「お花屋さんになる」「Jリーガーになる」「オリンピックにでる」などです。私たち人間は本性的に明るい未来に恋をしたいのでしょう。今、日本に元気がないと言われるのは、未来に恋ができないのです。景気がよくならないという声や失業率の問題とか、保育園の足りなさなどなんとしても明るい未来が見られないことが私たちを苦しめています。わたしたちは明るい未来をみたいのです。
典礼的に年間の主日のミサは、私たちの日々の中で、主イエス・キリストの復活を祝い、主の復活によって私たちにもたらされた大いなる恵みに感謝するミサです。主イエス・キリストによってもたらされた恵みとは、主イエス・キリストを救い主と信じ、その御あとに従って生きる者たちに約束されている、十字架の死を超えて復活された主イエス・キリスト の復活のいのちに与る希望です。
8月7日のミサ集会祈願には「希望のうちにひとつになる」とありました。私たちは希望のある明るい未来にむかって歩みつづけているのです。永遠のいのちのまなざしをもってこの人生の流れ、毎日の生活にある経済的な苦しさや厳しさ、あるいは病気やなおる見込みのないような絶望から生まれる重さやつらさを、希望への招きがあるという信仰をもってみたならば、決して暗い、絶望的な、もうだめだというものではなくて、その中にも明るい未来、今日の一歩を示していける、そういう光があたえられるのでしょう。
【 連載コラム 】
「荒野のオアシス教会を目指して」
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第68回
オアシスの水辺にたたずむ
暑い! 梅雨明けはいったいいつ?と思っていた7月半ばも過ぎた後半、やっと夏だ!と思いきや、この酷暑。冷夏より夏らしい夏は好きだけれど、それにしても暑い。しかし、この暑さの中、某ホテルの日本庭園を友人らと散策する機会があった。人工的ではあるけれど、所々に樹々があり丘があり、緑も多いせいか過ごしやすく風も通る。初老の方々も木陰の椅子に座り、話の花を咲かせていた。
友人が「ここは緑があっていいね~! やっぱり緑よね、オアシスだわ~」と、喜びの声をあげている。「オアシス・・・あ、原稿(これ)書かなきゃ」と私は心の中でつぶやきつつ聞いていた。
池のほとりに立ち、錦鯉のまぁるい口に不気味さを覚えつつ、この水があるから私達は生きられるんだなあとも、ぼんやり思う。
本当のオアシスでの水は、生死に関わる大きな存在。その水で、人も動物も植物も生きている。
私達の、私の信仰を振り返る。キリストとの出会い、生きていく中でオアシスを知り、水をいただいた。その水に生かされていることに思いを向ける。日々の暮らし・・・主の御心にかなってる? 非常に遠い所を歩んでいるという気持ちの方が強い。弱さと不安、恐れに打ちひしがれることの多さ。だけれど、だからこそ水辺にたたずみ、水をいただく。渇きを癒やしていただく。
今春、高齢の母がこの世での生を終えた。感情でぶつかる母娘関係でもあったけれど、根底にあるのは愛おしさだった。聖書を学んだこともなく、唯一、昨夏の入院手術の前後、ベッドの傍らで聖書を読む(主に詩編)という行動を夫がしてくれていた。娘である私は、気持ちはあっても動けないことを痛感もしていた。私がしたところで素直に聴けるのか、聴こうとするのか? しかし私の懸念を払拭するが如く、母は真摯に耳を傾け心を向けてくれた。気丈で自立心の強い母は、今までそんな姿を見せたことがなく、それだけ緊張し、心細さを感じていることも改めて実感としてわかり、その姿に何とも言えない気持ちも感じた。
その母に救いの水を渡したい。無理だろうか? 母だけでなく、他の者に受け入れられるのか? 勇気を持って切り出した。「母の魂の救いのために、洗礼を授けたい」と。拍子抜けするほど、あっさり受け入れられ、意識朦朧の母に水を垂らす。愚行多き私に「また、何をやっているんだか」と、きっと思っているだろうと思いながら。
夕方、主の祝福と言っていいと思うくらい、久し振りに美しい夕焼けを見た。日中の曇天を貫く光の強さと美しさに、茫然としながら「神様、感謝します」という言葉が心に浮かんだ。甘く、ゆるい信仰なれど、ここぞという時にいつも助けてくださる主。その主に感謝して、主の泉、オアシスの水辺に、また時折たたずみたい。