2015年1月号 No.497

発行 : 2015年1月17日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


もう少し人に優しくなります!

主任司祭 晴佐久 昌英

 多摩教会の信徒総会では、例年、「今年の教会スローガン」が採択されます。今年一年、どのような意識で、どのような目標を持って、どのような方法で、教会活動を進めていくかということを、ひとことで現したものです。
 私が多摩教会に来てからは、ずっと、同じスローガンを掲げてやって来ました。
 「荒れ野のオアシス教会をめざして」です。
 東京教区の岡田大司教は、着座式の説教でこう述べました。
 「私たちの教会がすべての人に開かれた共同体、特に弱い立場に置かれている人々、圧迫されている貧し人々にとって、やすらぎ、なぐさめ、はげまし、力、希望、救いとなる共同体として成長するように」
 我らが多摩教会は、この方針を具体的に実現させる教会として日々努力してまいりましたし、ささやかではあれ、開かれた共同体としての成果を上げてきたことを自負する教会です。私たちは、この荒れ野のような現代社会にあって、本物のオアシスとなることを夢見続ける仲間なのです。

 そんなわけで、今年もまた同じスローガンを掲げることになりましたが、毎年全く同じっていうのも工夫がなさすぎるということで、今年はサブタイトルを付け加えることを提案します。
 「荒れ野のオアシス教会をめざして──わたしたちは、もう少し人に優しくなります!──」
 というものです。「人に優しくなります!」という宣言で、お互いに自覚を深めようということですが、この、「もう少し」っていうところに、現実味を感じていただければと思います。ほんとに「もう少し」でいいんです。その「もう少し」がないために、「特に弱い立場に置かれている人々、圧迫されている貧しい人々」が、「やすらぎやはげまし」を得られず、「希望と救い」を感じられないでいるのですから。
 今の世の中、何が足りないって、「優しさが足りない」の一言に尽きるのではないでしょうか。確かに、お互いギリギリの生活で、人に分けてあげるだけの優しさなど持ち合わせていないように感じることもあるかもしれませんが、だからこそキリストの体を頂き、キリストと共に働いているのですから、そんな状況下でこそ、キリストの教会の真価が問われてくるのです。
 人生に疲れ果てた旅人を、優しさあふれるオアシスでおもてなししましょう。ほんの少しの優しさ、コップ一杯の奉仕で充分です。
 「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれるものは、必ずその報いを受ける」(マルコ9・41)

 昨年夏に、「こころのいやしのための青年キャンプ」、通称「ここヤシキャンプ」を奄美大島で開催したと報告しましたが、その後、参加者たちを中心に、より広く、より頻繁に集まろうということで、毎月の例会を行なうことになりました。
 「こころのいやしのための青年(30代まで)の集い」、通称「ここヤシの集い」として、毎月最終日曜日の16時(開場15時半)より、多摩教会にて開いています。17時から癒しのミサもあり、18時からみんなで会食です。顧問医師として、カトリック信者の精神科医も参加しており、すでに2回開きましたが、まさに心のオアシスのような集いになっています。
 心に問題を抱えている青年たちは、多くの場合、様々なところで排除されたり、傷つけられたりしています。そんな彼らの安心できる居場所になれたらと願っています。
 もちろん、お互いまだまだ不慣れで、問題点もありますが、ともかくも「特に弱い立場に置かれている人々」に、「安らぎや励まし」を与えたいという一心で始めました。
 今年、わたしたちは、もう少し人に優しくなります!

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第49回
天国の先取り 〜ミサへようこそ〜

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 佐内 美香

 「行きましょう、主の平和のうちに」
 この言葉に背中を押されて、私は毎週日々の生活を始動します。ミサに与るために生きるのか、生きるためにミサに与るのか -もちろん後者ですが、どちらか分からなくなるときもあります。

 初めてミサに与ったのは12年前、長女を通わせたいと訪れたカトリック校のクリスマスのミサでした。何の予備知識もなく、ミサ式次第もなく始まったミサでは、司祭と会衆のやりとりに圧倒され、挙動不審者のように、きょろきょろと周りをうかがい、立ったり座ったりを繰り返し、冷や汗のうちに終わりを迎えました。そのときに私の胸のうちに湧き上がった思いは、「ミサに滞りなく最初から最後まで与りたい。聖歌をきちんと歌えるようになりたい」でした。
 それから毎年、学校でのクリスマスのミサに与るようになり、ミサ式次第も手に入れ、年に一回のミサを楽しみにしていました。
 9年後、ご縁があって初めて多摩教会を訪れた日、教会でのミサは初めてだと気が付いたら、心臓の鼓動が速くなり、12年前の戸惑いが蘇ってきました。教会のミサに初めて訪れる者を教会の方々は、快く迎えてくださるのだろうかという不安が頭の中を支配し始め、教会へと続く乞田川沿いの道を行く私の足取りも重くなりました。
 そんな思いでたどり着いた教会の受け付けで、初めてだということを告げると、受け付けの方は温かく迎え入れ、ベテランの信徒の方を紹介してくださいました。その方のお陰でミサに滞りなく与ることができ、入門係をはじめ、たくさんの方々にお世話になり、今では10年も前からいたような顔をしています。

 「ミサは天国の先取り」と晴佐久神父様は言われます。
 ミサはこの世のオアシスです。私は、ミサのなかで神様がともにいてくださると実感します。聖体拝領で生きる力をいただきます。ミサは私の生活の中心です。毎日でもミサに与りたい。
 そんな私の願いが叶ったのが、昨年と一昨年の列聖式とイタリア・ローマ巡礼でした。毎日いろいろな教会を巡り、ミサに与りました。小さな聖堂、大きな聖堂、バチカンの聖ペトロ大聖堂でのミサ、列聖式のミサ、私たちツアーの参加者だけでなく、外国の観光客の方も一緒に与ったミサもありました。もちろん日本語で晴佐久神父様が司式されるミサに、外国の国の方々も神妙な面持ちで与っておられました。
 ミサに国境はない-当たり前かも知れませんが、そう思いました。

 そんな普遍的愛で私たちを包んでくださる神様の愛を実感できるミサを、天国を垣間見た私はまだ経験していない人々に伝えたい。私は何者でもありませんが、一信徒として伝えたい。
 そんな思いから日曜の朝、案内係として立つようになりました。戦々恐々としながら、ミサに与るようでは神様の愛どころではありません。少しでもゆったりとした気持ちで臨むことができるよう、お手伝いできればと思います。日曜の朝は普段と違い6時にはパチッと目が覚めます。今日はどんな方とお会いできるのだろうか?と楽しみでもあります。
 『ミシュランガイド教会部門』で三ツ星をいただけるよう、心を込めて初めての方をお迎えします。