2014年5月号 No.489

発行 : 2014年5月24日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


お墓の上の列聖式

主任司祭 晴佐久 昌英

 午前2時に起きて、午前3時にホテル出発。
 ヨハネ・パウロ2世教皇の列聖式に参列するために、巡礼団はまだ暗い道を歩き出しました。バチカン近くのホテルをいち早く押さえた巡礼団としての使命感もあり、異例の早朝出発となりましたが、すでにバチカン近くの道は各国のグループで溢れ、サンピエトロ広場とその前のコンチリアツィオーネ通りは徹夜組でいっぱいでした。
 ぎゅうぎゅう詰めの人込みの中、なんとか遠くに祭壇の見える正面まで進むことができましたが、結局、式が終わるまでの9時間、全く身動きが取れずに立ちっぱなしという、極限体験をしました。満員電車に9時間乗っていると想像してください。80歳を越えた参加者も含め、全員その間トイレにもいかずに過ごしたのです。もっとも、トイレを使わずに済むようにと、みんな起きてから飲まず食わずだったのですが。
 全世界の信者たちがひしめきあう中、押すなとか割り込むなとかの小競り合いはいくつかあったものの、全世界から集まった信者たちが互いに譲り合い、祈り合いながら、家族的な気持ちで集まっている様子は、さすがは列聖式と言うべきでしょう。
 特に聖体拝領の時、ご聖体を持った司祭たちが来る通路付近は大混乱になりましたが、それでもなんとか一人でも多く拝領させてあげようと、互いに協力しあう様子は感動的ですらありました。すでに拝領が終わった人たちが、まだの人の体を支えて持ち上げ、その手を引っ張って司祭のほうに差し出す姿を見た時は、秘跡を信じる仲間たちの熱い思いが胸に迫って、涙が出そうになりました。

 みんな、あの教皇様が大好きだったのです。あの旅する教皇、空飛ぶ秘跡の使徒が。
 私にとってのヨハネ・パウロ2世教皇は、人生において教皇というものを意識した、最初の方です。それまでは教皇なんて、どこか遠くの世界の人で、正直どうでもいい存在でした。しかし、ポーランド出身の若きパパさまは、全世界129か国を飛び回り、人々に福音を語りかけ、日本にまで来て神の愛を証ししたのです。たぶんそのとき、幼児洗礼の私は、教皇というものを始めて意識したと同時に、「カトリック教会」の本質を始めて意識したのだと思います。イエスさまからペトロを頭とする使徒へ受け継がれ、今日のこの私の信仰へと連なる、聖なる普遍教会の本質を、誇りと共に。

 列聖式はそのような思いを新たにするのには格好の場でした。
 なにしろ、第261代教皇ヨハネ23世を列福したのは、第264代教皇ヨハネ・パウロ2世であり、この第264代教皇を列福したのは、第265代教皇ベネディクト16世で、その第265代教皇が共同司式する中で、第266代教皇フランシスコが、第261代と第264代教皇の列聖式を司式しているのです。
 第1代のお墓の上で。

 バチカンは言うまでもなく、歴代の教皇のお墓であり、歴代の教皇の誕生の地でもあります。列聖式の翌々日、そのお墓と、誕生の場を巡礼しました。
 サンピエトロ大聖堂に入ってすぐ、右側のピエタ像の隣の脇祭壇に、聖ヨハネ・パウロ2世教皇の石棺が安置してあります。また、その先、秘跡の小聖堂の先に、聖ヨハネ23世教皇のガラスの棺が安置してあり、ご遺体を見ることができます。その先、教皇祭壇の下が、聖ペトロのお墓です。
 また、裏手からバチカン美術館に入館すると、システィーナ礼拝堂にも入ることができます。言うまでもなく、教皇選挙の行われる、教皇誕生の場です。入って奥の左側、再び美術館へ戻る方の出口の上の壁に、イエスさまが聖ペトロに天国の鍵を渡している絵が描かれています。イエスさまがペトロに「あなたの上に教会を建てる」と宣言している場面です。まさにそのペトロのお墓の上に、サンピエトロ大聖堂が建っているわけですが、歴代の教皇は、選ばれた直後、この絵の下で祈るそうです。絵の中のペトロは、片手で鍵を受け取り、「この私が?」と言うように、もう一方の手を胸に当てています。
 新しい教皇の誕生は、第一代から続いてきた天国の鍵が、また新しい世代へと受け継がれる瞬間でもあるのです。



◆巡礼旅行の画像です。それぞれ、画像をクリックすると、拡大表示されます。◆

列聖式巡礼 列聖式巡礼2


【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第41回
「2年生になりました。この1年を振返って!」

諏訪・永山地区 山本 博光

 新受洗者の皆さん、おめでとうございます。昨年受洗したばかりの私です。皆様、どうぞ宜しくお願いします。この一年を振り返り、併せて昨年の受洗者文集に載せられなかったこぼれ話をしたいと思います。

 私の受洗のきっかけとなった東京カテドラルでの東日本大震災被災者追悼と復興祈念コンサート。そこでの神秘体験、柔らかいスポットライトのような光を浴びて、何かが「わかった」と思った瞬間を文集に書きました。その後何人かの方から「そんなこと、起きるわけないよ」と言われました。全くです! 私もそう思います。今でもそう思います。
 しかし、身近な人々を通して、疑いようのないものとして、再確認させられる出来事が連続して起こりました。
 追悼コンサートでは「葡萄の枝」のお説教があると事前に聞いて、「不要な枝は火にくべられて、焼かれてしまう話? 追悼なのになんてひどい!」と、怒りを感じていました。でも、中学時代、修道士の先生から頂いた聖書は実家に置きっぱなしで、開くこともなく、記憶違いかもしれないから、じっくり読んでみよう、よし買いに行こうと四谷の書店へ。その時対応して下さったKさんから、「演奏会は、私も行きます。楽しみです。私も関口教会の聖歌隊で歌ってます」、こんな言葉を頂きました。

 ところで、カテドラルには素晴らしいパイプオルガンがあります。しかし大変残念なことに、祭壇に向かって指揮をすると、オルガン奏者からは、背中合わせで指揮棒は全く見えません。このままでは、伴奏には使えません。
 その難問をテレビ局で働く友人が、祭壇前に小型のカメラとオルガン奏者脇にモニター設置し、その間を150メートルのケーブルで見事解決してくれました。勿論無償で。教会関係者でない私、友人、彼の部下が演奏会の前日と当日、誰もいない聖堂に入り作業をするので、教会からFさんが、立会ってくださいました。2日間にわたり大変長い時間、お付合いいただきました。
 演奏会も無事終わり打上げで、Fさんから、「住まいはどこですか?多摩市なら、近くの多摩教会にはハレレと呼ばれている、とても素晴らしい神父様がいる。そこには兄もいますから、是非行ってみて下さい」と多摩教会へ行くことをすすめられました。
 私は、リハーサルに家族で来てくれた中学からの友人が多摩教会にいて、以前、彼に会うために教会のバザーへも、また彼の作曲した聖劇も見に行ったこと、晴佐久神父様にもご挨拶したことがあることを話しました。
 この後、私が一昨年の復活祭に多摩教会を訪れた時に、神父様銀祝のコンサートで一緒に歌うことになるのですが、そのメンバーのお一人Tさんが、Fさんのお兄さんであったとは、後から知って驚きました。しかもKさんは、Fさんの娘さん、つまりはTさんの姪子さんだったとは、さらにその後知って驚き2倍!
 また、友人と私が高校時代に始めた聖歌隊は、今もグリークラブとして活動を続け、昨年春には、私が追悼コンサートで共演した南相馬の合唱団と彼らも共演したとは! 更にこの演奏会ではSさんも、もうひとつの共演合唱団の一員として、一緒だったとは!

 でもなんといっても極めつけは、私自身受洗後一週も欠かさず、御ミサに与れたことです。何をしても長続きしない、この私が、です!
 私の場合、神父様のおっしゃる「信者の意地」そんなカッコいいものではありません。日曜日しか休みのない私は、身も心もボロボロで、マリア様に一週間無事過ごせたことを感謝し、御ミサの最後の言葉「行きましょう、主の平安のうちに!」を聞いて、これから一週間をやっていく、自信と元気を頂いて聖堂をあとにします。毎週「おすがり」しているだけなのです。
 なのに、聖書朗読も答唱詩篇も数回、やらせていただきました。しかもこの復活徹夜祭には代親、連願の詠唱というご褒美まで頂いてしまいました!
 希望してから受洗するまでの37年間を、一気に埋めんばかりのとても濃い、充実した、大きな喜びに満ちたこの一年でした。

 多摩教会、そこは兄弟達が集まるオアシスであることは勿論です。私にとってはワンダーランド。否、ミラクルが本当に自分に起きた、そして今も、これからも起こり続けるであろう、まさしく天国の入り口です。

【 投稿記事 】


「あかつきの村のリーさんのこと」

桜ヶ丘地区 佐倉 リン子

 「あかつきの村の便り」はいつも感動をもって読むのですが、4月20日付けの最新号の1頁目、グエンバン・リーさんの文章には特に強い衝撃を覚えました。これは是非教会の皆様にも読んでもらいたいと思いました。

 4年前、家の中で集めた大型の不要品を取りに来ていただけるか、あかつきの村に電話して、初めてリーさんとお話をしました。
 日本人同士の会話とは違い、リーさんは極度に口数か少なく、ちょっと戸惑いましたが、こちらの意志が通じた感触はありました。ところが、一度目二度目と約束の日時に現れず、夜になってやっとリーさんと連絡が取れて、次のことがわかりました。都内の一カ所で荷物を積み込んでいるうちに、暗くなりそうで、帰り道が長いこともあり、群馬に戻ってしまったということ。都内の交通事情と12月下旬という条件を考えると、全く無理もないことと思われました。

 ベトナムの方はどうやって多摩まで来られるのか、私は少なからず心配しました。1丁目のTさんも不用になったが、まだ充分使える物を沢山玄関内に寄せて、待ってくださいました。このままお正月を迎えるのかと思っている時、リーさんから電話があり、「今日は多摩を目標とするので、昼過ぎには来られる」とのこと。約束の時間を過ぎてから電話が鳴り、「今、佐倉さんの家の前にいる。30分前からいるのだが、誰もいない」とのこと。今いる場所の番地を教えてもらい、I さんのお宅の前にいることがわかりました。I さん家は2丁目、私の家は3丁目だが、続く番地が同じで、道はカーブしているが、1分もかからない近さです。こんな複雑なことわかってもらえるかしらと思いながら、外に飛び出して行くと、左手のカーブから幽霊のような大型ダンプがゆらりと現れました。手作りと思われる「あかつきの村」の文字が幽霊の額の部分に大きく張り付けてあります。
 リーさんは中年の体格の良い方でした。手伝いもなく独りで荷物を積み込み、時間がないと、用意したおやつも辞退され、大急ぎで1丁目のTさん宅に、私が先導して行きました。同じようにてきぱきと落ち着き払って、荷物を積み込み、帰路に着かれました。薄暮の行幸橋を左に折れ、甲州街道に向かって、高い運転席から「もう大丈夫」と言うように、ちょっと合図をして去って行かれました。

 ベトナムを脱出して40年近く、あかつきの村の創始者・石川 能也神父の熱き思いを受け継いで、生きてきたその原点を今この「お便り」の文章に見ています。
 その文章に心を揺さぶられた私は、次の日奇しくも主日のミサで晴佐久神父の説教の中心が「熱き心」であったので、このリーさんの文章を多くの方に読んでいただきたいと思いました。

easterlinelong

「あかつき」

 夜、暗い内に国を脱出する計画は2回とも失敗しました。3回目は日が出るころ、あかつきの明かりの中、脱出することを計画しました。そして、あかつき「RANG DONG」のころ(一晩緊張して働いていた公安たちが寝るころ)、脱出に成功しました。

 小舟は段々と広い海へ進み、国を後にしました。船に乗る予定の人数がオーバーし、一時混乱状態となり、その間、船のエンジンも止まってしまい、何度も修理をしました。修理はうまくいきましたが、高い波にもまれ、ほとんどの皆が船酔いに苦しみました。
 船は公海に入り、安定した速度で到着予定地へ向かっていたと思うと、翌日は突然高波になって、皆また船酔いになり、またしても船のエンジンが止まってしまいました。いくら直しても直らず、高波で船が不安定なため、海水が大雨のように船の中に入ってきてしまい、とても危険な状態になり、船が海水でいっぱいならない様にするので精一杯でした。
 エンジンなしの小舟は海に流され、どこに行くのでしょうか・・・? すべて神様に任せて、昼も夜も絶えず祈り続けました。

 夜の海は真っ暗で、誰もが恐怖に襲われ、何一つ安心できることはありません。海はとても静かだと思うと、突然に怒るような高波になり、小舟を地獄の底に投げ込むような恐ろしい姿になります。小舟に乗った時に、それぞれが自分の命をかける覚悟は持っていたのでしょうが、それでも責任者として、自分以外の88人と、お母さんの体内に居る3人の赤ん坊の命に対して、重い責任を感じていたので、14回目のあかつきを迎えた15日目の午後の奇跡のような出来ことに、その責任から解放され、感謝の気持で一杯になりました。
祈りの声は、天に届いたのです。

 その日、海は非常に静かで何か奇跡が起こるのを待っているような感じでした。
 小舟の左側からノックの様な音が聞こえ、船に上がって見てみると、大きな一匹のウミガメが現われたのです。そして何回もノックの音が続き、一人の若い者が手を出すと、簡単にウミガメを船の中に入れることができました。10日間くらい食べ物がなかったので、皆の意見でウミガメのお肉を皆に配って食べ、皆元気になり、若い者たちは、静かな海に飛び込んで体を綺麗にしたりしました。
 その直後に、大きな船が私たちを助けてくれました。その船の船長の話しによると、その夜は大型台風が来ていて、一歩遅かったら私たちの命はなかっただろうということでした。私にとって、暗い海で14回あかつき「RANG DÔNG」を待ち望んだ思いは、一生忘れられません。

 その後、日本に入国できて、石川神父様と出会って、あかつきの村に入ったときは、楽園に入る様に感じられました、なぜなら暗い海で「あかつき」「RANG DÔNG」を待ち望んだ後、「あかつきの村」の「あかつき」をみることができたからです。

 今でも、色んな原因で難民になる人々の数は少なくありません。彼らは、どんな「あかつき」を見ることができるのでしょうか?神様に、彼らを助けてくださいと祈るしか方法がないかもしれません。
 「見よ、きょうだいがともにすわっている、なんというめぐみ、なんというよろこび」(塩田泉神父作曲)
 いつまでも、あかつきの村が明るい「あかつき」であることを深く望んでいます。

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(広報注記:文章は原文のままで複製しました。)

【 例会報告 】


「初金家族の会」5月例会報告

担当: 志賀 晴児

 5月2日初金のごミサでは、教皇ヨハネ23世とヨハネ・パウロ2世の列聖式参列の旅から元気に戻られた晴佐久神父様が、「サンピエトロ広場とその周辺に世界中から集まった何十万もの人たちが、一斉に聖体拝領をする姿に感動しました」と話されました。

 引き続きの家族の会、今回は、総合商社で長年海外勤務をされ、工場や大学キャンパスなど 大型の国家プロジェクト建設事業などに携わってこられた中嶋 誠さんの体験談でした。
 中南米、ヨーロッパ、アフリカ諸国など、70か国、100都市での駐在体験から、高速道で車が横転、かすり傷ひとつ負わず命拾いをしたこと、言葉がうまく通じないで気まずい思いをしたこと、「青信号は赤だと思うべし」という国があること、《聖霊》が働いたのではと思うほど突然、人物画を書くようになったというご自身のことなどのお話でした。
 「ウソのよう なホントの話」のタイトルそのままの珍談奇談を伺いながら、「グローバルに活躍された企業戦士」のご苦労や悩みのほどをお察ししました。
 中島さんは、去る3月19日、復活の聖なる徹夜祭ミサ中に多摩教会で受洗されました。

 次回、6月6日(金)には、信徒の小林寛嗣さんにマザー・テレサゆかりの地、インドを旅された時のご体験を伺う予定です。
 初金家族の会ではお昼前の1時間、お茶を飲みながら盛りだくさんの話題と出会うことができます。どなたもどうぞご自由に、気軽にご参加ください。こんな楽しい話がありますよという方、係までお知らせください。