今回は、晴佐久神父様が巡礼旅行にお出かけのため、代わりに私がこのページを担当することになりました。
今年も復活祭を迎えました。主のご復活おめでとうございます。そして、今回洗礼を受けられた39名の方々、おめでとうございます。
復活の主日の前の主の晩餐夕べのミサ(4月17日木曜)、主の受難(18日金曜)、復活の聖なる徹夜祭(19日土曜)では、いつものミサとは異なる典礼が行われました。ここでは私が特に印象に残ったところをお話ししたいと思います。
主の晩餐夕べのミサでは、司式司祭が会衆の中の12人の男性の足を洗う洗足式が行われました。これは言うまでもなくキリストが最後の晩餐で行ったことの再現ですが、自分の足を司祭に洗ってもらうなどふだんなら考えられないことだと思います。なお、この洗足式ですが、私は多摩教会に来る前には見たことがなく、初めて見たときに驚いたことを覚えています。
また、主の受難の祭儀では、祭壇上のすべてのものを取り除き、キリストの受難の朗読や十字架の礼拝が行われました。キリストの受難と死とを思い起こすためです。とても厳粛な儀式だと思いました。
そして、復活の聖なる徹夜祭では、復活ろうそくによる光の祭儀に始まり、ことばの典礼を経てから、この日まで準備をしてきた志願者に対して洗礼と堅信の秘跡が授けられ、感謝の典礼が行われました。この日はキリストの復活を祝い、私たちも新しいいのちに生きる決意をする日です。洗礼式のはじめに歌われる「諸聖人の連願」は諸聖人の取り次ぎを願うものですが、重厚でとてもいい祈りだと思います。叙階式のときカテドラルで歌うのもいいものです。
これらは、すべてその日にふさわしい典礼であり、キリストの死と復活を思うのに最も適した祭儀であるのではないかと思います。
そして、復活の主日のミサでは、復活と関連のある聖書の箇所が読まれ、復活を祝う歌が多く歌われますが、私はここでは続唱が印象に残りました。第2朗読のあとに復活の続唱が歌われますが、この続唱は復活の主日と、任意ですが復活節第2主日(神のいつくしみの主日)にも歌われます。主の復活をたたえる歌で、少し長い歌ですが、歌詞の意味をかみしめながら歌いたいと思いました。続唱とはアレルヤ唱へと続く歌という意味で、以前は多くあったようですが、第2バチカン公会議で復活と聖霊の2つの続唱以外は任意になったようです。1年の中で復活の続唱が歌えるのは、この時期だけです。復活の喜びをこめて歌いたいと思いました。
このように主の晩餐夕べのミサから復活の主日までは、この期間にだけ行われる典礼が数多くあります。このほかにも復活祭には、卵が新しい生命のシンボルとして登場します。復活の主日のミサの最後に神父様が卵の祝福をなさったことは皆さんもご存知でしょう。
年に一度の復活祭は私たちにとって大きな喜びです。それはキリストの復活を祝う喜びと洗礼により新しいいのちをいただいた方々を教会にお迎えすることのできる喜びなのです。このたび洗礼を受けられた方々、ようこそおいでくださいました多摩教会へ。
【 連載コラム 】
「気づかないとき、神様は常に私のそばにおられた」
皆さん、こんにちは。多摩カトリックニューズに書くのは初めてなので、この場を借りて自己紹介と感謝するエピソードを短くご紹介したいと思います。
私は1967年にケニアの首都ナイロビで生まれました。両親は熱心なカトリック信者で、私は生まれてから1カ月も経たないうちに幼児洗礼を受けました。しかし、それは面白い方法でした。生まれた時の名前をそのまま洗礼名にするというやり方でした。今思えば名前変更の登録の手間を省こうという両親の狙いがあったのかもしれません。
小学生の頃は、毎週日曜日に母親と兄弟たちで教会に行きました。家から教会までは歩いて15分ほどでした。近所の子供たちは教会学校でシスターたちからカテキズムを学びました。ミサが終わると男の子たちはサッカーで遊びました。サッカーの他には音楽のバンドもありましたが、私は参加しませんでした。多摩教会のようにお菓子はもらえませんでしたが、小学校時代の教会は非常に楽しかったです。
カトリック信者としてこれまでで一番嬉しかった思い出のひとつは、1980年にありました。教皇になって3年目のヨハネ・パウロ二世が私の故郷ナイロビに来られたときのことです。
当時、中学1年生だった私に夢にも思わないことが起きました。教皇のミサに参加することができたのです。とはいえ、それはナイロビ中心部にある「ウフルパーク」という名前の大きな公園でのミサでした。恐らく10万人以上の信者がミサに与ったのではと思います。当時、大きな野外用モニターは普及しておらず、祭壇から遠く離れたところにいた私にはパパ様の顔をはっきり見ることはできませんでした。たまたま横に座っていた人が双眼鏡を持っていて、それを貸してくれたので、パパ様の顔が「手に触れるほどに」非常に真近に見えたことをはっきり覚えています。教皇の御ミサに与ったのはこの1回のみでしたが、ヨハネ・パウロ二世はその後も1985年と1993年にナイロビを訪問されました。
恐らく、初めて信仰について深く考えさせられたのは、「オプス・デイ」と呼ばれるカトリック組織が運営しているカトリック高校に進学した時でした。その学校ではカトリック信者の生徒たちのために毎日、ミサがありました。そして学期の初めには2泊3日の黙想会がありました。告解も1週間で何回もできたので大変充実した信仰生活でした。
ケニアの大学では、学生カトリックのサークルに入りました。そこで友達を集めて聖書朗読会をつくりました。毎週金曜日の午後8時に集まり、聖書を読むことにしました。朗読会を3年間行い、その中で何度も聖書に書かれている文章の美しさに感動しました。
日本に来てから独身だった頃は都心の教会に通っていました。
カトリック信者は少ないだろうといわれていたので、カトリックの友達(女性に!)に出会うことは諦めていました。しかし、そこで「普遍的な神様」が現れて、私の考えが間違っていることを示されました。そう、日本でカトリック信徒の女性(妻の暁子)と知り合ったのです。結婚式はカトリック目黒教会で行い、2人の娘に恵まれました。
目黒教会から多摩教会に転入したのは2000年のことでした。それから14年間、教会学校をはじめ、いろいろなかたちで私たち家族は多摩カトリック教会の皆さんに大変お世話になっています。
そして喜ばしいことは、主任司祭である晴佐久師の下で福音に目覚める新しいたくさんの仲間が増えていることです。そして、教会は楽しく賑やかになってきました。私にとって、多摩教会は心のオアシスであり、神様の恵みを共有する場所です。その仲間が増えてきたのは大変嬉しいことです。
個人的な活動は何もしていませんが、これからも皆さんと一緒に神様に祈りを続けたいと思います。
【 例会報告 】
四旬節中の4月4日、初金ごミサに引き続いての家族の会では初台教会所属の作曲家、菅原 悟さんの「神様は、今、私たちに何を望んでおられるのでしょうか」というお話を伺いました。
『多くの悪に災いされている世界で、限りない愛の存在である神様は、私たちとの一層の親密感を求めていらっしゃいます。私たちも、すぐそばにおられる神様の偉大な愛に心を燃え立たせ、絶え間なく心をこめて祈り続けましょう!』と、熱心に呼びかけ られました。
次回は5月2日、初金ごミサの後、午前11時から信徒会館1階で、世界各地の生産設備建設に携わってこられた中島 誠さん(今年のご復活に受洗された方)の愉快な体験談、仮題「ウソのようなホントの話」を予定しています。
多数の方のご参加をお待ちしております。