2013年5月号 No.477

発行 : 2013年5月18日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


一緒にいるよ

主任司祭 晴佐久 昌英

 3月に釜石を訪問した際、このたびNPO法人となった「カリタス釜石」から、被災地でのボランティア活動のために新たに必要となった中古のワゴン車購入資金を依頼されたため、この誌上でも皆さんにご寄付を呼び掛けましたが、ひと月で無事に予定金額が集まりました。おかげさまで4月24日に、釜石へ直接お届けすることが出来ましたのでご報告するとともに、ご協力いただいた皆さんに心より御礼申し上げます。

 「ひと月以内に耳をそろえて持ってまいります」と、釜石ベースのスタッフに大見得切ったはいいものの、希望額が180万円という大金でしたので、果たしてどうなるかと思っていましたが、予想以上に皆さんが協力してくださり、結果的には245万円集まりました。多摩教会の皆さんはもちろん、ホームページ「福音の村」でも呼びかけたため、全国から、また海外からも送金してくださり、中には「クリーニングを我慢して」とか、「ガソリン代を節約して」という方もいて、頭が下がりました。

 復興にはまだまだ程遠い現状ですが、一方で応援したいという思いもまだまだあるということを知らされて、うれしかったです。ずっと続けてきた「神父がみんなの義捐金を直接届けに行く」という方法も、そんな皆さんと被災地をつなぐという意味で、それなりに効果的であることも改めて実感しました。お訪ねするのは、「思っているよ、一緒にいるよ」という思いのしるしであり、それこそが最も必要なことなのです。

 ワゴン車資金を受け取ったカリタス釜石のスタッフ一同は大変喜んでおりましたし、あっという間に集まったことにとても驚いていました。そして何よりも、自分たちが忘れられていないと感じることができたと、感激していました。

 その夜、ベースのスタッフみんなをお寿司屋さんに連れて行って激励会をしましたが、席上、ベース長がしみじみと言っていました。
 「活動が理解されずに落ち込むことや、先が見えずに不安になることもあるけれど、こうしてみんなに支えられていることを知ることで、何よりも元気が出ます。こうして会いに来てくれるだけで、どんなに大変でも大丈夫、きっとやっていけるって思えるんです」

 試練のとき、人は無力感にとらわれます。その試練が長く続くと、被災者はもちろん、被災者支援をしているスタッフやボランティアたちの心にも、無力感や徒労感が忍び込んできます。そんな現実を前に何もできない私たちもまた、いつしか無力感に支配されていきます。そんなときに何よりも大切なのは、「直接会うこと、一緒にいること」です。
 「人が独りでいるのは良くない」(創世記2.18)
 これからも、訪問し続けようと思っています。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第29回
「歌は最高の祈り、音楽は聖霊の湧き出るオアシスの泉」
私の信仰告白として

稲城地区 小俣 浩之

 聖霊降臨の祝日を迎える頃の季節が大好きです。
 瑞々しい若葉が生い茂り、優しい日の光がきらきらと輝いて、新しい息吹に満ち溢れ、まさに聖霊が天から降り注いでくるようです。そんなとき、天上で奏でられる優しい音楽に包み込まれるような気持ちになります。
 そして多摩教会というオアシスに近づけば、噴水のように飛び散る聖霊の飛沫をいっぱい浴びることになります。

 元来怠慢な私は、ときどきいろんなことがものすごく億劫になったり、煩わしくなったりもします。
 「このところ仕事、決して暇ではないしね、仕方ないよ」とか自分で言い訳を勝手に作りながら、ときには重い足を引きずりながらも、なんとか多摩教会にたどり着く。
 マリア様の前で挨拶をし、ミサにあずかり、次第に心が軽やかになっていく。ミサの後には教会学校の子供たちに囲まれて、一緒に歌を歌う。教会学校の子供たち、目をきらきら輝かせながら座っている。子供たちのすぐそばにイエス様がいらっしゃるのを感じる。聖霊に満たされる瞬間。
 そして疲れていた私はいつしか再生している。

 歌は祈り。
祈る心とともに歌を歌うと、ものすごく透明な気持ちで神様の前に立てます。
 そんな心を子供たちの中にも育みたい。音楽を通して子供たちの感性も磨きたい。人々を柔らかく包み込む音楽のような優しい心を持ち続けて欲しい。
 そんな想いもあって、もう10年以上、多摩教会の聖劇を子供たちと一緒に作ってきました。

 新しい曲を作ろうとして恵み豊かな歌詞の言葉を前にしたとき、突如として優しい旋律が聖霊とともに天から降りてきます。
 天が開き、天上の音楽が微かに聞こえてくるようなその一瞬が訪れるまで、ピアノの前で悶々とする。聖劇の練習開始が迫っている。けっこう苦しい時間となります。しかし、この作業は召命だと思い、聖霊とともに運ばれてきた旋律、どこかに飛んで行ってしまう前に、なんとか音符というかたちに置き換えていく...。
 「ああ、この旋律、この歌は教会学校のあの子の声にぴったりだ」、
 「このメロディを教会学校の子供たちが全員で合唱したら、イエス様もきっと喜んでくれるだろう」、
 そんなことを思いながら、聖霊が耳元まで運んでくださった旋律をひたすら楽譜に書き留める。
 聖霊の湧き出る泉となる音楽の力、信じています。

 先日、多摩教会で洗礼を受けたばかりの旧友が、初めてミサで答唱詩編を独唱しました。たまたまその日は私がオルガンを担当。
 数十年前、高校時代に彼と始めたささやかな聖歌隊。いまは建て替えられてしまった昔の校舎の片隅にあった小さな聖堂での練習のことがよみがえる。あのときも私はオルガンを弾いて、彼の伴奏をしていた。
 私は自分の信仰を見つけ出す苦労を知らない幼児洗礼。彼は長い間探し続け、悩み続けていた。
 長い長い道のりを経て、その彼がいまや洗礼を受け、ミサで答唱詩編を歌っている。多摩教会の聖堂全体に彼の声が響き渡る。満を持して洗礼を受けた彼の歌声、祈りと信仰の証しに聞こえました。

 歌は最高の祈り。神に感謝。