2013年11月号 No.483

発行 : 2013年11月16日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


バチカン庭園の聖母像

主任司祭 晴佐久 昌英

 先月、「晴佐久神父と行くヨハネ・パウロ2世教皇列聖決定記念バチカン・ローマ巡礼旅行」という、長たらしいタイトルのツアーを催行しました。
 これは、ヨハネ・パウロ2世教皇を慕ってローマのゆかりの場所を巡るもので、彼を特別に慕う人たちが、来年4月の列聖式を待ちきれずに出かけてしまったというフライングツアーです。彼がまだ若い司祭としてローマにいたころ、毎週ゆるしの秘跡を授けに通っていた小教区聖堂を訪れて、彼がゆるしの秘跡を聞いている姿のブロンズ像の前で祈り、回心を願ってミサを捧げるなど、相当マニアックなコース設定でした。
 10月20日の主日には、聖ペトロ大聖堂に安置されている彼のご遺体の前で祈り、地下の聖ペトロの墓前の小聖堂で主日ミサを捧げ、感極まって宣言してしまいました。
 「私は、ヨハネ・パウロ2世教皇を、列聖します!」
 世に言うフライング列聖式です。以降、巡礼団は、勝手に「聖ヨハネ・パウロ2世教皇」と呼んでおりました。
 旅の中心は、10月22日の、彼の記念日です。この日は聖なる教皇をしのんで、バチカン庭園を訪問しました。ありがたいことに、この日は私の誕生日でもあり、素晴らしい天気にも恵まれて、忘れられない一日になりました。

 バチカン庭園は、聖ペトロ大聖堂の裏手に広がる庭園です。バチカンの約半分の広さで、美しい森の小道や精緻なイタリア式庭園、噴水や13世紀そのままの建造物などがあり、また、教皇専用の鉄道駅やヘリポートなどもあります。庭園内はほとんどひと気がなく、サンピエトロ広場の喧騒がうそのように、静寂そのものです。
 普段は教皇が散策することもある場所ですから、一般公開はされていません。今回は事前に予約して、イタリア人女性のガイド付きで見学することができましたが、ガイドからは、「ガイドの言うとおりに動け、ガイドから離れるな、走るな、大声出すな」などの諸注意がありました。
 まず印象的だったのは、庭園を囲む城壁内部の道です。ただの道ですが、ガイドさんが「ヨハネ・パウロ2世教皇は、よくここでジョギングをしていました」と言うので、思わずガイドの目を盗んで走ってしまいました。ほんのちょっとですが。そうか、パパ様も走っていたか。やっぱり健康第一、福音のためにちゃんと走らなきゃ、と思わされました。
 また、前教皇の現在の住まいも印象的でした。前教皇ベネディクト16世は生きているうちに引退したので、なんと「名誉教皇」としてこの庭園内に住んでいるのです。そこはマーテル・エクレジエ(教会の母)という名の修道院で、これはヨハネ・パウロ2世教皇の要望で造られた観想修道院です。世界中の女子修道会にバチカンでの観想生活を提供する目的で建てられ、各修道会が数年交代で暮らして、教皇と教会のために祈り続けています。
 たまたま、この修道院の下で、ドイツ人の見学グループが口々に大声で「ビバ、パパ!」と叫び出して、飛んできた警備員に厳重注意されている場面に出くわしましたが、彼らの気持ちは痛いほど伝わってきました。言うまでもなく、前教皇はドイツ人でしたから。

 見学コース最後の方で、ファチマの聖母のご像の前を通ったので、ガイドさんに「ご像の前で、みんなで祈りたい」と申し出たら、ちょっと驚いた顔をしましたが、「どうぞ」と言ってくれました。
 1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世教皇は、サンピエトロ広場で狙撃され、重傷を負いました。この日はファチマの聖母のご出現の記念日だったので、彼は聖母が守ってくださったのだと感謝し、聖母への信頼を一層深めたのです。彼がその2年後には犯人を刑務所に訪問し、赦しを与えて、完全な信頼関係のうちに会話したのは有名な話です。
 私は「パパ様にならって、愛をもって暴力に打ち勝とう」とお話をし、みんなでロザリオの祈りを捧げました。
 生前、この庭園のご像の前で、あの教皇様は何を祈られたのでしょうか。
 別れ際に、ガイドさんが言いました。「みなさんが本当にパパ様を慕っている姿に感動しました。多くの見学者を案内してきたけれど、庭園で祈った人たちは初めてです」


庭園側から眺めた聖ぺトロ大聖堂
庭園側から眺めた聖ぺトロ大聖堂

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【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第35回
「カトリックとの出会い」

愛宕・乞田・鹿島・松が谷・和田地区 加勇田 明子

 カトリックとの出会いは、アンセルモ教会(目黒)の土曜学校です。私は5年生でした。
 教会に行くきっかけは信者の友人に誘われたからです。先生の弾くピアノを囲んで、聖歌の練習をしました。どの曲も何回も繰り返したので、よく覚えています。その後クラスに分かれて紙芝居、子どもの公教要理、お話など、最後に聖堂でごミサでした。

 私は、先祖の命日、お彼岸など、仏教の行事には家族でお寺にお参り行く一般的な家庭に育ちました。ですから土曜学校で学んだこと、体験したことのほとんどを、新鮮で興味深く感じたものでした。たった2年間でしたが、自ら進んで得た知識は即、外国文学に触れる時、世界史を学ぶ時、興味を引く大きな要因になりました。それらの底流にあるキリスト教的感覚に自然になじめたからです。
 そして、中学になったからは、教会へ行かなくなりました。

 大学生になった時、よりキリスト教を知りたいと思い、高輪教会に行きました。そこで偶然、土曜学校の時の先生と再会しました。当時のことを話すと、すぐ思い出してくれました。当時のドミニコ会の神父様のことなど昔話に花が咲きました。
 初めての公教要理の時、先生が懐かしい写真を見せながら、私をスカボロ宣教会の神父様に紹介してくださいました。求道者は私一人でした。訛のある日本語なのに、とてもわかりやすく、しっかり吸収できました。聖書が身近に感じられました。

 それから何十年か経って、私は八王子教会の土曜学校で教えていました。
 スタッフにと要請があった時、びっくりしてお断りしました。人違いと思ったからです。それほど、信仰と距離のある自分を自覚していたからです。信仰を教えることなど考えたこともありませんでした。熱心な要請に戸惑いながらも、この役を受けたのは土曜学校の体験があったからでした。
 経験をすること、それはどんな講義よりも、説得よりも強い力になるものだと知りました。また、蒔かれた種は長い時間を経ていろいろな形で芽を出すものだと思いました。しり込みをしていたにもかかわらず、子どもたちとの関わりの中で、知らなかったこと、忘れていたことなど楽しく勉強することができました。

 これら教会を通して得た経験、人々との素敵な出会いは貴重です。これからも、教会が日常生活のオアシスであり続けるよう努力していきたいと思います。

【 投稿記事 】


五日市霊園多摩教会墓地への墓参

委員長補佐 北村 司郎

 去る11月4日、恒例になった五日市霊園にある多摩教会の共同墓地への墓参を行った。
 あいにくの天候であったが、50名以上の方々の参加があった。数週間前からの呼び掛けにこたえられた方々とお墓を持っておられる方々で、年々参加者が増加していっている。
 貸切りバス1台と数台の車に分乗して教会を9時30分出発。霊園に到着後、今年もあきる野教会のご厚意により、聖堂をお借りして死者のためのミサを行った。当日は死者の月ということもありいくつかの教会からの墓参もあった。
 その後、多摩教会の共同墓地へいき、お祈りとお花をささげた後、個人でお墓を持っておられる方の希望で、神父様が各お墓を回って祈っていただいた。昼食後、帰路につき3時過ぎに解散の1日であった。

 多摩教会の墓地には250名ほどのスペースが用意されており、現在の所、予約を含めてもまだ半数以上が空いている状態である。多くの方に利用していただきたい。
 今後も死者の月の行事の1つとして、続けていかなければならない行事と思う。来年はさらに多くの方の参加を希望している。


あきる野教会でのミサ
あきる野教会でのミサ
多摩教会の共同墓地で
多摩教会の共同墓地で

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【 例会報告 】


初金家族の会 11月例会報告

広報: 志賀 晴児

 天の父のもとに迎えられ、全ての人のためにとりなして下さる聖人方に心を向ける「諸聖人の祭日」の11月1日、ごミサのお説教で晴佐久神父様は「日々の苦しみ、心の痛みが私たちの殉教です。聖人、特に各自の洗礼名(霊名)の聖人の模範に励まされて信仰の旅路を辿りましょう」と話されました。

 ひき続いての初金家族の会、この日は「介護」について、20人ほどが熱心に話し合いました。長く、苦しい傷病に見舞われた家族の自宅介護、入院、転院、最後の救命措置の厳しさなど、貴重な体験談が率直に語られ、公的なサービス、医療費などについても具体的な実例を伺うことが出来ました。
 一人で頑張らないで、お互い声をかけあい、役割を分担して助け合うこと、そのためには介護する側の考え方、意見の一致が大切、また介護される側も辛抱し、出来ることなら感謝の気持を表すことが必要、介護を通して家族が仲良しになったなどなど、お話は尽きませんでしたが、一応12時半で閉会とさせていただきました。

 12月6日(金)には、「九死に一生を得て」と題して松永 重雄さんの今日までの体験と、乗り越えた今のお気持ちをお聞きします。