多摩教会にはよその教会からも信者さんがたくさん訪問してくださいます。カトリックだけではなく、プロテスタントや聖公会の兄弟姉妹も遊びに来てくださいます。そして、いろんなお話をさせていただくのですが、初めて来られる方などは、信徒館よりも、オアシス広場のほうがリラックスできるようで、ベンチでお話させていただくことが多く、今ではオアシス広場は重要なコミュニケーションの場となっています。
先日遠くのカトリック教会から来られた姉妹がこんなことをおっしゃるんです。
「晴佐久神父様の福音はすばらしいんですが・・・。私少し怖いんです」
「ええ? それはなぜですか?」
「だってすべての人が救われるんでしょ? それだと、私困るんです」
「どう困るんですか?」
「あまり・・・向こうに行ってから、お会いしたくない方もいるからです・・・」
なるほどなぁ、もっともだと思ってしまいました。私にも思い当たるふしがないわけではありません。しかし、これは少し違います、心配には及びません。天国というのは、魂の平安が完全に得られる場所ですから、その人にとってイヤなことは何ひとつ起こらないんです。逆に言えば、イヤなことが起こるような場所は天国ではないからです。ここまでは、確かなことですが、これを具体的(?)に説明するのは至難の技で、実際天国がどんなところか、どんな構造になっているかは、誰にもわからないので困ります。
月並みですが、ダンテの神曲を例にひいて、「神様のご配慮で、天国は複数の階層に分かれていて、似たような境遇の人、近い思想、価値観をもつ人に分かれて住んでいるので、貴方にとって困る人と一緒に暮らさなければならないことはないと思いますよ」と、ご説明したものの、果たしてこれで良かったのか悪かったのか・・・。
でも、その姉妹は「安心しました」とその後メールで伝えてくださいましたので、私もほんとうに、安心しました。