連載コラム「スローガンの実現に向かって」第96回
「立春の日の明け方、こんな夢を見た」
例によって私は、とうに取得しておくべきものを、自身の怠慢によって、まだ取得してこなかったことに気付いて、途方に暮れている。今からでも遅くない、何とかしなければ、と焦るのだが、どこを訪ねて何をしたらよいのか、皆目わからない・・・。高校や大学の卒業試験さえまともに受けずに、今日まで万事ごまかしで通してきたのだ。だが、ひとは騙せても、自分までは騙せない。もう一刻の猶予も許されない。今日の若者たちの目の覚めるような活躍ぶりを見てみるがよい。彼らのまぶしいばかりの姿は、みんな、幼いころからの決意と精進のたまものではないか!
気が付くと、私は、大きな象の背中に乗って、どこかを目指しているようだが、ここがどこで、どこを目指しているのかもわからずに、またまた呆然自失している。すると、なぜか私の後ろに乗っている見知らぬ人物が、気のせいか、こう呟いたように感じる。「君は、南の方に続く、あの海岸線を辿って、さらに南の島々を訪ねては、私と一緒に探索の旅を重ねてきたではないか。決して、何もしてこなかったわけでは、ない」。見ると、確かに南の方には、長い海岸線の遥か向こうに、緑の美しい島々が点々と霞んでいる。でも私には、思い当たる節がない。きっと誰か別人のことだろう。そう思って振り返ると、颯爽たる風貌の人物が、落ち着き払った様子で一枚の名刺を差し出して、こう言う。「これをもって行って、見せたらよい」。名刺には、名前も記してあったようだが、ただ小さなマークだけが目に入る。いったいこの人は誰で、どこに行けというのだろう。そう思っていると、場面は一転してしまう。
私はずいぶん昔に亡くなったはずの父を伴って、かつて学んだある外国の大学の裏山の径を辿っている。右手下方には、もう何百年も前に建てられたカレッジのチャペルが順に姿を現して、懐かしさに胸を突かれる。その一つに少し近づくと、まるで廃れた修道院を思わせるような古さだ。父は無言で、何もかも知っているような面持ちで、静かに見守っている。私は安心したのか、そのまま、再び眠りに落ちたようだ・・・。
目が覚めると、昨夜の気落ちした気分はすっかり消えて、何か希望とやる気に満ちている。昨夜は、人生の根本問題の解決法を説いた、ある不思議な書物の一節を読んで、この十年来続けて来た私の努力は一体何だったのかと、そのあまりの違いに、ただの虚しさを超えた遣り切れなさを抱えて、そのまま床に就いたのだった。
それにしても、あの人物は、いったい誰だったのだろうと改めて考えていると、印度の聖典『バガヴァッド・ギーター』の王子アルジュナとクリシュナ神のことが思い出される。クリシュナは、戦場を前に、武人としての務めを忘れて立ち尽くすアルジュナに、人にはそれぞれの使命があって、誰もそれを避けて通ることは許されないのだ。どんなに困難でも、勇気を鼓して、おのが使命を果たすことが神に仕える者の道なのだと、諄々と説くのであった。
そうだ。あの不思議な書物に書いてあった人生の根本問題の解決法とは、その所在には、ずっと前から気付きながらも、そのあまりに高度な内容を前に怖気づいて、これまで一度もまともに取り組んでこなかったものだ。愚かにも私は、真剣に挑戦しようともせずに、自分の無力と不甲斐なさを、いたずらに嘆くばかりであったのだ・・・。そう考えると、教会では、今日は「病者の癒しのミサ」の行われる日であったことに、思い当たる。すると、突然、あれは、見知らぬ青年と父とクリシュナ神に姿を借りたイエス様ご自身であったのだという確信が、五体を走る。
教会では、案の定、弱気とごまかしという病にとりつかれていた私を一喝するよう言葉が次々と繰り出されて、私を圧倒する。
「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」というイザヤの言葉は、昨夜の私の気持ちそのままではないか。だが、セラフィムの火鋏にはさんだ炭火で唇を焼かれたイザヤの、主のみ言葉に決然と応えようとする言葉は、何と力強いのだろう。「私がここにおります。私を遣わしてください」。ここには、一点のたじろぎも躊躇(ためら)いも見当たらないではないか。
それに応えるかのような、続くパウロの言葉も、何と謙遜で、誇りに満ちていることだろう。「私は神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも、一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」としながらも、「私は他のすべての使徒よりずっと多く働きました」というのは、神の恵みによって使命を果たし続けてきた者だけに許される、なんと誇りに満ちた、輝かしい感謝の言葉なのだろう。私はと言えば、「やっと最後に、月足らずで生まれたのだもの」と言っては、ただただ誤魔化すばかりだったというのに・・・。
そして最後は、ペトロの持ち船に乗ったイエス様の言葉と行いに、おそらく何の備えもないまま、全てを捨てて着き従ったペトロ、ヤコブ、ヨハネの、何という潔さだろう。御子キリストによって召し出された者の、恐れを知らぬ一途の姿が、胸を打つ。私たちも、それぞれに、この世に使命を負って生まれてきたというのに、私の、何という卑怯・未練なのだろう。言い逃れ・弱腰は、文字通り死に至る病なのだ。
ミサの終わりに、病者の癒しの香油を塗っていただいた私は、「そうだ、私も行って、そのように行うのだ。ただ、やるだけのことではないか」と、まるで憑き物が落ちたような気持ちで、帰途に就いたのだった。あの夢に現れた人物は、今日のミサを先取りして、私を温かく励ましてくれていたのだと気付くと、私は、こみあげる感謝の涙を抑えることができなかった。