「祈りと行動の調和を目指して」
都立桜ヶ丘公園の緑に惹かれて連光寺に小さなエコハウスを建てて5年目になりました。
虫の食べ残しを収穫するような家庭菜園と名ばかりのイングリッシュガーデンに手を焼き、園芸書ばかりが増えていくのが悩みですが、聖蹟桜ヶ丘駅周辺にお気に入りの店も増え、ようやく地元の人になってきました。一方、永山駅方面にはめったに行かないので、鎌倉街道沿いにカトリック教会があることを偶然に知ったのは引越しから数年過ぎた頃でした。
教会学校に始まり、中学校から大学までカトリック学校に通い、海外援助部門の職員として大阪大司教区に勤め、カトリックの世界とのお付き合いは随分長くなりました。ただ「教会に通うこと」を第一義に考えたことはなく、これまでも転勤先にある教会を調べたことはありませんでした。
今は、WEB上の「聖書と典礼」を読み、仕事を通じて出会った悩んでいる人、助けを求めている人、社会的弱者にされた人に寄り添い、具体的な手助けをすることで精一杯の毎日を送っています。
数年前の練成会で「祈りが伴わない社会的な関わりは基盤のもろいものになり、実際の行動が伴わない祈りは誠意に欠けるものになる」という話を聞き、非常に合点がいき、それ以来、日々の暮らしのなかで祈りと行動の調和が保たれているかどうかを強く意識するようになりました(内観)。
新約聖書には赦される基準は祈りでなく行動であることが、随所に示されていますが、マタイ7章21節の言葉は厳しいものです。「わたしに向って『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父のみ心を行う者だけが入るのである」。もちろん「主よ、主よ」と呼ぶことは悪いことではありませんが、神がすべての人々が救われて真理を知ることを望んでおられるように、神への呼びかけが自分の赦しや癒しばかりを求める欲望にとどまることがないようにしたいと思っています。
最後に、広報委員から「オアシス」というキーワードを取り入れてもらいたいとの依頼がありましたので、使い慣れない言葉ですがすこし考えてみました。
信仰者は、社会や家庭での言動が神の望まれる姿になるように努力しますが、現実的には神の期待に応えるのはかなりの困難を伴います。実際、神は私に落胆していることでしょう。それでも神との対話を淡々と続けながら社会的な活動を諦めないこと、これが「オアシス」のような気がします。
参考までにいつも祈りの手引きにしている本を紹介します。いずれも著者はアントニー・デ・メロ(イエズス会)「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」、「心の泉」(女子パウロ会出版)。