連載コラム「スローガンの実現に向かって」第106回
田村一男さん さよなら
田村さんが去る2月10日亡くなられた。またひとり多摩教会創設に尽力した同志がいなくなった。寂しい限りである。1月の終わりころ突然電話をいただき、「私の葬儀の時、ミサの司会を頼む」というものだった。聞き取りにくくはあったが、声に力を感じたので、こんなに早く逝ってしまったことに驚いている。
田村さんとの出会いは、多摩教会が東京教区から認められて間もないころだったように思う。当時はニュータウンといっても、諏訪・永山・愛宕しかなかった。私も田村さんと同じ諏訪に住んでおり、多摩教会のニューズの編集を私の家でやり、夜遅くなって、彼を家まで送っていったのを覚えている。その日、彼は私の家に来る途中、足をひねり、痛みをこらえての編集であった。そのため帰りは私が自転車の後ろに乗せ、彼の家まで送った。そのころ私は車を持っていなかったのである。
こんな彼との関係だったので、彼を先生と呼んだことはなかったし、彼もそんな関係をよしとしていてくれたのだと思う。
田村さんがエリオットの研究で、カトリック学術研究奨励賞を受賞したのは1979年のことである。一研究者としての彼の実力は、素晴らしいものだったようである。同じ出身大学の彼の後輩の言によれば、田村さんってすごいですよ。私なんか足元にも及ばない。しかしながら、教会の中では誰とでもあの人懐っこい笑顔で接してくれた。
田村さんも私も、その後ニュータウンの拡大に伴い、鶴牧地区へ来たが、よく彼の家へお邪魔させてもらった。そんな折、「最近、授業中の学生の私語がうるさいんだよ。」 なんて言われたことを覚えている。彼が歳をとったせいで、今まで感じないものが感じられたのか、学生の質が落ちてきたのか、わからないが一教官として、小中高の教員と同じような悩みを持っておられたことに、何かホッとするものを感じたことを覚えている。
2012年退官と伺ったが、長年の教官生活に生意気な言い方をさせていただくなら、やはり最も適したこところに彼はいたのだと思う。最も生き生き出来るところに彼自身がいたのだと思う。その意味からすれば幸せな人生なのだと思う。
この何年かの年賀状は、ご自分の体調の悪さを書いてきて心配していたが、昨年からの年賀状に次のような歌が書かれていた。
過ぎし日の その時どきの よき出会い 胸裏に収め 喜寿を 超えゆき (2019年)
晩歳を 令和のみ代に 生かされて ひと日ひと日の 空を仰がむ (2020年)
この歌を読ませて頂き、田村さんが生涯の終わりを感じながら、この静かな心境、いままでの人生をすべて肯定するような心境になれることを羨ましく思う。それも彼が自分の実績を誇るのではなく、「出会い」、「生かされている」自分に喜びを感じられていることである。
田村さんさようなら。 私たちのために天国から祈ってください。