「荒野のオアシス教会を目指して」
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第72回
「光り続ける一粒の真珠」
80歳も半ばに達して、生かされてきた年月の中に、つまっている出来事は沢山あるのに、その中に、海辺の砂の中に光る真珠の粒にも例えられるような風景が、失せることなく光を放ち続けているのに気が付きだした。その光が美しくて安らかなので、これこそが、神が人間に光を当てられた瞬間だったのでは、と思えてきた。
その一粒の真珠のもたらす風景の中心には特異な容姿の小学生時代の旧友がいる。名前を「ツツさん」としよう。ツツさんは、この頃、マスコミで取り上げられることの多い、生物的に両性同一体だったのだ、と後年私は理解した。
私がツツさんに出会ったのは、小学校入学間もないとき。もの心つく頃の記憶の中には、南京陥落の夜の提灯行列、ハワイ真珠湾攻撃、東京大空襲。東京の夜空が真っ赤に染まった1945年3月10日の午後、小学6年生だった私は、卒業式のために集団疎開先の茨城県から帰京したところだった。このような激変の時代の中でも、ずっと海辺の砂の中に埋もれていた心象風景、人間を人間たらしめるひとつながりの出来事が、私の中で生き続け、老いゆく心に活をいれてくれること、心のオアシスであることに、今、気づいたのである。
この「オアシス」の中心人物ツツさんは、容姿の異様さが際立っていた。手足が長く、どちらかといえば、男性的な立ち居振る舞い。内臓に病があったのか肌の色が全体に濃く、くすんでいて、いつも教室の後ろの隅の席に周りの子供が近づかないので、特待生みたいに悠然と座っていた。でも、私は、ツツさんは明るく、人に意地悪をしない無害な人だと思っていた。
お兄さんと弟がいて、運動場で誰かがツツさんをからかったりすると、悲しそうに心配そうにしていたのが印象的だった。髪結いをしているという優しげなお母さんが、ときどき学校に現れ、「何も悪いことしないでしょう。仲良くしてね」と子供たちに話しかけていた。今思うと、他のお母さんたちより、年をとって地味だった。
軍国調の世の中にあっては、小学校には幸い、ツツさんのような子供を優しく包み込む空気があった。ツツさんは長期欠席もせず、学校に来ていた。ただ、少人数の子供がツツさんをいじめることがあり、ある日、下校時刻のベルで皆が校門近くに並んでいるとき、一人の子供がツツさんの足を蹴飛ばした。担任の山田先生がすぐに、そのいじめっ子の脚を手で叩いた。いじめっ子は大声で泣き、家に帰るとその母親が血相を変えて怒鳴り込んできた。若い山田先生は、青い顔をしていらした。
戦後何年か経って30歳くらいの頃、焼け残った古い家に住む母を訪ねるため、西武線に乗ると、すぐ斜め前の席に山田先生が座っていらっしゃる。少し年を取られたが、相変わらず、背筋はしゃんとしてハンサムな先生。「山田先生、3年生のとき、担任していただいたリン子です」と名乗り、先生の隣に座わった。下落合のホームに降り立つと先生が、中からしきりに手を振ってくださった。昔と同じあの柔和な明るい笑顔いっぱいで。先生がツツさんに親切になさったことが、私の心の中でこんなにいつまでも真珠の粒のように輝き続けているとはご存知ないと思うが、それこそが私にとっての「オアシス」、神が人間にくださった愛の証だと私には思える。
後年、小学校の同期会で、ツツさんの近所に住んでいた男の子が、ツツさんの亡くなった頃の様子を報告してくれた。威厳をもって報告してくれたのが嬉しかった。彼自身ハンサムで優秀、女性徒に慕われる存在だった。山田先生にしろ、この男子にしろ、人間らしい人間はハンサムである。真珠の粒が光り続ける由縁でもある。