連載コラム:「オアシスに集い憩う旅人たち」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第55回
オアシスに集い憩う旅人たち

稲城・川崎地区 柴田 郁夫

 15年ほど前より、現在は月に一、二度ですが、都内のとある教会の英語ミサで、侍者の奉仕を続けています。そこに集う会衆はフィリピン系の人が半数以上を占め、場所柄、インドの人々も多く、また少数ですが欧米やアフリカ系の人もいて、国際色豊かなミサとなっています。三段ほど高くなっている内陣から会衆席を見回すと、そこには、さまざまな国から来た人々が心を一つにして歌い、祈る姿があります。そして一つのチボリウムから分けられる聖体を拝領し、ミサ後にしばし交流を楽しんで帰って行きます。言葉も文化も異なる地で日々緊張を強いられながら生活する彼らが週の初めに教会に集い、御言葉といのちのパンを頂き、それぞれの日常に戻る。それは砂漠の旅人がオアシスに立ち寄りのどを潤し、しばしの憩いの後にまた旅立っていく姿を彷彿させます。

 さて、奉仕を始めた当初、気になることがありました。それはミサ中に聖堂内で遊ぶ子どもです。英語ミサに集まる子どもの多くは、フィリピン人の女性と日本人の男性との子で、ほとんど英語ができません。いわゆる「泣き部屋」が設けられていますが利用しない親子も多く、子どもは退屈しのぎに堂内で遊び回ります。言葉も分からないミサでは無理もありません。ただ、「親がもっと気を配るべきなのに」と苦々しく思ったものでした。
 ある日のミサで、4歳くらいの男の子2人が聖堂内を走り回っていました。当時の主任司祭はアメリカ人で高齢のM神父で、普段は気さくなおじいちゃんでしたが、ミサの時は神経をピリピリと尖らせ、侍者の動きに少しでも粗相があると後できつくダメ出しをされました。そんな方でしたから、子どもが駆けずり回っていて気に触らないはずはなく、横で奉仕をしながら「きっと苛々しているだろうな」と思うと、こちらまで苛々してきました。結局、子どもたちは終わりまで騒いでいました。
 さて、ミサが終わって退堂するやM神父は祭服姿のまま踵を返して祭壇へと戻って行きました。先ほどの子どもがまだ遊んでいたので「きっと雷が落ちるぞ」と思いながら見ていると、なんとM神父は祭壇に座り込んで子どもたちと遊び始めたではありませんか。その姿を見て、私は雷に打たれた思いでした。
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マタイ19:14)
 何度も耳にしているはずのこの御言葉ですが、私はマルタのように多くのことに気をとられ思いわずらった状態で、福音を理解し思い巡らす余裕がなかったのです。己の浅薄さ、未熟さを痛感し、恥じました。それとともに泣き部屋があるのも善し悪しだとも感じました。そして、その日以来、私はミサ中に子どもがどんなに騒ごうとも全く気にならなくなりました。私に身をもって福音を示してくださったM神父は昨年の暮れに惜しまれつつ、主の御許へお帰りになりましたが、私はあの日のM神父の姿と教えを生涯忘れることはないでしょう。

 時が過ぎて私も子を持つ親の立場となり、昔とは反対の意味で気をもむようになりましたが、幸いなことに(?)ここ多摩教会には泣き部屋がなく、神父様をはじめ信者の皆様が温かい目で見守ってくださるので、心置きなくオアシスに憩わせていただいております。