突然の真夏日の到来となりました。暑さ慣れしていないこの時期の気温30度超えは、体調にひびくといわれています。かといって、急激なクーラー内生活もまた負担になり得ますので、どう過ごすか難しいものです。
先日、神学院で司祭を目指す神学生と、その同伴の司祭方に、講話をしてきました。院長さまから依頼があったとき思い出したのですが、私は2005年の司祭叙階でしたので、今年で15年となるわけで、神さまの計らいと原点復帰を促されたように感じました。
司祭へと進む自分を意識したのは、中学2年生のときでした。通っていた教会に、「カッコイイ(?)」神父様たちが着任しました。おもしろくって、笑いがあって、でも落ち着きがあっての風格でした。4人の神父様が一つの教会でミサをされていたので、バランスがとれていたのかもしれません。
一方、家庭状況ですが、父は昭和20年という戦争さなかでスパー神父様と出会い、洗礼を受けました。スパー神父様は、現在、「聖書と典礼」などを出版しているオリエンス宗教研究所の初期メンバーになっていた方です。父は神父様との出会いのなかで、親のように慕っていただけあって、自身が家庭をもち、家族の会話の中で今まで出会った司祭の思い出話が、多くありました。だからでしょうか、私が教会であった話の中で、司祭のちょっとした嫌みの話題になると、父に猛烈に怒られました。父が私にしていた信仰教育というのは、それだけかもしれません。私が神学校に入るとき、「司祭はハッピーな人生を送れないぞ」と静かに言いました。その父も、今年で帰天して10年となりました。
母は戦争の疎開先の学校で出会ったシスターに憧れて、洗礼を受けたということでした。本気でシスターになりたかったのと聞いてみましたが、長い識別の期間を経て、社会の中で働く道を選びました。私の幼少期には、「さみしくなったらロザリオを唱えなさい」と言って、毎年5月になるとロザリオを買って、取り替えてくれました。その母も、現在ちょっと記憶が曖昧になってきました。
そんな両親をもった私は、生後三カ月で洗礼を受けています。「善いと思ったことはすぐに」という私のパターンは遺伝のようです。その後、普通に近くの公立学校に義務教育時代は通っていました。しかし、不思議なことに、小学校の担任の先生の結婚相手は牧師で、中学の担任の先生はクリスチャンでした。小学校の先生は、卒業時の通信欄に、「こんなにクリスチャンであることを平気で公言できるあなたにびっくりしました。尊敬してます」と書かれていて、怒られっぱなしの小学生生活でしたので、コメントをみて意外に感じました。
中学の先生は、「馬鹿は神父になれない。だから勉強しろ」が在学中のコメント、「ひとつのことを成そうとするのは素晴らしいこと」というのが卒業時のコメントでした。
「普通に信じて生きていく」というスローガンを聞くと簡単ですが、難解なことに遭遇すると試練となる内容です。自分の力を信じすぎてバランスを失うし、自分を卑下すると、これもまた不安定になることがあるからです。ある程度の「不偏心(かたよりのないこころ)」が必要です。それができるのは心の自由を持つときです。祈り方も大事になります。
これだ!というものがあって、洗礼なり修道院や神学校にはいるスタートがあっても、それが自分の人生に効き目をもたらすためには、ゆっくりとした時間とタイミングと相性という意味で、よき計らいが必要です。焦らないことです。
4月の終わりの日曜日、多摩教会の主日ミサを平神父様に委ね、カリタスジャパンの務めで生まれ故郷の教会である高円寺教会でミサ&講話をしてきました。神学校に入ってから23年のご無沙汰にもかかわらず、その分年を経た教会の皆さんが、「しっかりやっているか? 大丈夫か?」の様相で講話の場にいてくださったとき、自分は見えない神さまの計らいに導かれているなと感じました。そして十年以上の友人関係だった人、40年間親のように指導してくれた方と親戚、また多摩教会の歴史のなかで大切なものを与えてくださった方々への葬儀の祈りをする機会がこの一カ月の間にありました。寂しさと同時に神のなさる素晴らしさをくみ取ることができる祈りの中で、その人生に向けた神さまの計らいの偉大さに驚嘆します。
召命(しょうめい)という教会専門用語ですが、広い意味ではすべての人に神さまからの使命がある、狭い意味ではその呼びかけに賭けて司祭、修道者になるとあります。英語にあたるvocationには「天職」という説明が辞書にありました。
多摩教会では、6月16日には、聖堂イコンを制作され、多摩教会とゆかりのあるシスター内海が2年ぶりに来日、多摩教会で講話をしてくださいます。6月30日には、多摩教会の信徒から神学校に入り、司祭となって25年になる猪熊太郎神父様の感謝と講話のチャンスがあります。
広い人生の大海原で、神さまが導いてくれるということに賭けてみる。それはすべての人に該当します。そして見えない事が多いけれど、あの方が愛をもって見守ってくれている。そんな生き方を目指す我々に対して示唆となる言葉が、このお二人から頂けるかもしれません。
「排除ZEROキャンペーン」の講演を調布教会で