10月のカレンダーが現れると、クリスマスや年末を思い起こします。実際、教会売店にもカレンダーや手帳が未来の持ち主を待つかのように店頭に並んでいます。教会学校の聖劇も練習が始まりました。クリスマスの場面を主に演じ、救い主が訪れるという喜びを伝えることが多いこの劇は、いつから始まったのか定かではありません。実際に演じてみたり、演じている人に共鳴することによって、メッセージを体感することになるといわれています。
「むかし、せかいはまっくらで なにもみえませんでした」
これが当時4歳だった私の、聖劇デビューの台詞でした。黒いタイツを身につけ、神さまの創造前の風景と、救い主が生まれたベトレヘムの町が小さいことと、寂しさを衣装で表したのです。明治時代の日本、とくに関東地方の宣教に身を捧げたフロジャック神父様は、「ベトレヘムという暗く小さなまちに救い主が生まれ、光輝いた。この暗さがあったからこそ、光がうまれたという喜びがある」と力説しました。光をより際立たせる暗さという存在を意識させました。一方、現代の都会では、逆に光が煌々と輝いています。眩しすぎて、ちゃんと見ることを邪魔するくらい光量が多い場所もあります。照明だけでなく、宣伝用看板、宣伝用の動画。夜にもかかわらず明るいのは、ここに住む人が元気で活発だということを表しているかのようです。
11月11日に、多摩教会が属する多摩東宣教協力体(多摩・調布・府中教会で構成)は、秋の協力企画として東京教区福祉委員会の企画を誘致し勉強会をひらくことになりました。今回の表題は、「夜回り神父さん、トウキョーの街みて語る」。オリンピックのメインスタジアムができる周辺の原宿・渋谷は夜の時間であっても街は明るく、その対局にはいのちのすばらしさを輝かすことが叶わない人がいる。講話者の下川神父様がその現場での人とのかかわりから得たことを分かち合い、私たちの街を考えるものです。
私も学生時代から夜の町をグループで歩き回って必要な助けを行うことをしていましたが、ある場所では役所の人からその夜回りの最中、罵声や脅しを受けたことがありました。深い事情はわかりませんが、褒めてもらいたいとは考えていないものの、脅されるということは想定外でした。そこから、世には「何かが違う&大切な事柄が見落とされる勢いや圧力を感じる」という疑問がでてきたのです。必死に生きている人は、他の場所にもたくさんおられます。今回はオリンピック・パラリンピックを成功させようとそれだけに突進しようとしている風潮に対して、排除される人のことを意識し、広い視野、神さまの目線に近づけて、私たちがさらに人にやさしくなれればと思います。
私個人は、オリンピック、パラリンピックに賛成でも反対でもありません。パラリンピックについては、この機会に東京の町にある無数の段差がなくなるよう整備されればと願います。例えば、歩行者はまたいで通過できる小さな段差であっても、車いすで移動している人には体に多大な衝撃が伝わり、痛みや苦痛をもたらすものになります。原宿周辺は路面がタイル貼りになっているところがあり、走行する人の気持ちを考えると、改善されてほしいと思います。
結果だけでなく、アスリートの輝きだけでなく、出来事によって神さまの目線で「よい」ことがおこるよう期待したい。その心と行動と表現する言葉の準備として、東京ならではのこの企画のために府中教会まで足を運んでくだされば幸いです。府中教会には駐車場はありません。駅から歩くことをお薦めします。