巻頭言:主任司祭 豊島 治「愛のあるところ、それがクリスマス」

愛のあるところ、それがクリスマス

主任司祭 豊島 治

 「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」(旧約聖書民数記6章)

 この素敵な祝福のことばをもって、神様の力がこの私に注がれていることを祝いたいとおもいます。

 クリスマスの祝いは、キリスト教の他のどんなことよりも日本で市民権をもっています。経済的効果でいえば、コンビニもおもちゃ屋さんも活発です。それぞれいろいろな形で街のクリスマスが行われ、特別な何かをしようとしたり、してあげようとしたり、そういう参加する機会があったかと拝察します。

 しかし、わたしたちはこの時節、街のクリスマスではなく教会として主の降誕を祝います。街と教会の違いはなんでしょうか。いろんな事が言えると思いますが、一点を今年挙げるとしたら、街のクリスマスというのはいわば過去のクリスマス、過去形のクリスマスの感覚。そして教会は「いま」を祝います。

 キリストがおよそ二千年前に生まれたということは歴史的事実で、キリストが30数年生きて、そして十字架で死んだ。そこからキリスト教がはじまった。それは歴史的な事実です。でも、キリストの誕生を、キリストの誕生のみを記念するならば、それは過去のクリスマス。しかし、教会はそれを前提としていますけれど、歴史的なそのときをただ降誕〇〇年として記念して祝っているのではありません。
 「今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそキリストである」

 目に見えるイエスという人の誕生とその生涯、その十字架の出来事。それは目に見えない神様が、目に見えない神様の救いのわざが、神様の私たちの限りない愛が、現れたということ。イエスにおいて神はわたしたちの中にこられたというのは過去ではない、神様がいつも共におられるということなのです。

 生活の格差や不安定な「いま」の状況をもってでも、ささやかな愛をもって生きるそんな大切なものをもって迎えましょう。