巻頭言:主任司祭 豊島 治「まねかれています」

まねかれています

主任司祭 豊島 治

 私が小学生のとき通っていた教会学校には、「せいれいシスター」と揶揄(やゆ)されて、子ども達に怖がられたシスターがいました。揶揄というと各方面に失礼となりますが、やんちゃな一学年30人を擁した教会学校ではそんな雰囲気がありました。
 その「せいれいシスター」の授業は、月の第二日曜日でした。第二日曜日とわかると、ミサの後、さぼるかどうか、同級生とささやき合うのでした。でも、ミサ後に出される軽食がパンの日で、生クリームたっぷりのイチゴパンでしたので、それを頬張って至福のとき(当時は食べることができました)となると、教会学校開始のブザーがなって整列し、逃げ遅れたというしかめっ面をしながら列に並び、クラスに分かれて部屋に移動するのでした。

 「せいれいシスター」と言われる所以(ゆえん)は、徹底したお祈りの授業でした。畳の部屋があって、そこに座って、祈る。じっとしていることが苦痛な年代にとって、始まりは楽しいものではありませんでした、シスターは姿を現すと、満面の笑顔で「よくきたね」「おいで」と招くのです。女の子は笑顔で応じ、男子は照れながらそれに従うという光景でした。
 することは単純。座って、まず挨拶します。でも、普通の形ではありません。「日曜日は神さまの日です、朝なにをしますか?」という促しを受けます。ニューズを読まれている皆さんは即答でしょう。日曜日が主日といわれているように、主は神さまであるから、神さまの日、5月に「母の日」があるように6月に「父の日」があるように、日曜日は「神さまの日」と教えられていたのです。ですから、「神さま日曜日だね、おめでと」というお祈りの始めのあいさつが、それぞれの心のあいさつとして始まります。そのとき、座ったままでいいからお辞儀をするというのが習わしでした。
 そして座ります。徹底して静かに息をすることから始めます。足を地に着けて、背筋を伸ばし、入ってくる新鮮な空気を体の隅々にまで届くかのようにします。そしてゆっくり吸い、そしてゆっくり吐き出す。そんなことの繰り返しで、神さまの心を感じる。15分間は、恥ずかしいやらでもごもごしていましたが、やがて45分間、座って・静かに・前向きになって沈黙の祈りをすることができるようになっていました。
 そんな「せいれいシスター」が、この3月をもって、教会での奉仕を引退なさると風の便りでうかがいました。足腰がきつくなったとのこと。40年過ぎて教会学校の仲間と会うと、「毎日最低15分間の祈りをしなさい。聖書と聖人の言葉をききなさい」を口ぐせにされていたシスターの言い方を真似して笑い合います。当時と今は違うしょう。ですから、今の時代に合った祈りへの導入を、シスターの教え子のすべてができるわけでもありません。でも、その土台があって神さまの愛に立ち戻れていると分かち合っています。

 「教皇フランシスコ訪日」というマスコミの記事が多々掲載されるようになりました。このニューズ発行の日は、まさに教皇さまが羽田空港に到着なさる日です。教会の「パパさま」たる教皇さまが来られるのですから、興奮して息が荒くなる人がいるのは当然でしょう。でも、我らのパパさまが、何を私たちに伝えたかったのかを、しっかり自分の中に取り込むには長い時間がいります。議論したくなる気持ちを抑えて、座って自分の心に取り込み、力にする時間をもって整えてからにしましょう。
 私たちの場所に来られたパパさまの歓迎をしたのちは、救い主イエスさまを迎える待降節となります。私たちにはじめて姿を見せた幼子イエスさまは、 「飼い葉桶に寝かされた乳飲み子」と聖書にはあります。寝ていること=寝息を立てている以外、何もしていません。たくさん神さまからの息吹を感じて、大丈夫の安心を頂いて、頂いたことばを力にしましょう。