巻頭言:主任司祭 豊島 治「いのります」

いのります

主任司祭 豊島 治

 6月はみこころの月となっています。カトリック関連の店舗ではいわゆる「信心グッズ」が目立つように展示されており、雰囲気をだしています。安価なものから細かい装飾をほどこしたものまで並んでいます。でも飾って眺めるというのが第一義ではなく、祈りのために使われなければ本来の意味はありません。

 最近、小学校からの知り合いで長い間教会に通っていなかった方から連絡があり、ご両親が帰天されたので祈りを頼まれました。17年前に主の祈りの文言が変わったことも知らない彼が葬儀ミサの最前列に座り、ロザリオの珠をくくり祈っていた姿に放蕩息子の帰還がはじまっているような内面の変化を感じました。

 幼児洗礼である私や彼にとって教会はもう一つの家の感覚でした。小学生のころは「神父さん」は教会のお父さんみたいに思っていました。ミサを祝って分かち合うその繰り返しを過ごしてきた訳ですが、多くの恩人といえる神父様と出会いました。厳しさを感じる神父様や、こだわりを持っている神父様などいろいろでした。ある教会の神父様はとてもおっしゃることが厳しい方でした。常に教会の人はその神父様に注意をうけていました。しかし、ある日の夕方その神父様のお母様が母国で帰天されたという一報がはいりました。普段は元気いっぱいの、よくお話好きな神父様は聖堂後ろにあるマリア像のところに座り小さくなって肩を震わせて泣いておられるのを見ました。
 その影響でしょうか、私の父が亡くなった8年前から親の存在の偉大さを感じるとき十字架の前で、またはマリアさまに向かって小さく背中をまるめて祈るようになっていました。その静かな時間は忙しくしている時とは異なるまなざしを感じます。そして次へ向かう力となります。

 偶然ですが、多摩教会が誕生した1972年は私の生まれた年でもあります。多摩教会も出会いと別れを繰り返し、その祈りと行動によって支えられ生かされてきました。マリアさまの保護のもとに導かれ、歴史の重みと暖かさを多摩教会聖堂が献堂された今年5月14日の主日ミサで感じました。

 今年の12月には多摩教会にて初代主任司祭寺西神父様が主の降誕のミサを行います。神父様は今年ダイヤモンド祝である叙階60周年を迎えるのです。どうか司祭のためにお祈りください。