巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

わたしがオアシス

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 オアシスというところに実際に行ったことがあるという人は、そう多くはいないでしょう。おそらく、ほとんどの人はそれぞれ自分なりのオアシスのイメージを持っているだけで、現実のオアシスを知らないのではないでしょうか。もちろん、わたしもそうです。まず思い浮かぶのは、砂漠の中にヤシの木が生えていて、井戸端でラクダが休んでいるのどかな光景です。
 現実のオアシスがどのようなものであるかは実際に住んでみなければわからないことでしょうが、おそらくは、そんなのどかな憩いの場所であると同時に、結構しばしば命がけの現場となっているのではないでしょうか。突然襲う砂嵐の中、命からがらオアシスにたどり着く隊商にとって、そこは単なる休憩所ではなく、時には生死を分かつ避難所でもあるはずです。そんな時はオアシスで迎える側の意識も「よろしかったらどうぞ」などという悠長なものではなく、「おーいここだ! 早く来い」というような、必死な思いであるのは当然のことです。

 先日の信徒総会で、多摩教会2010年のスローガンを「砂漠のオアシスとなる教会をめざして」とすることが了承されました。先月号でも触れたとおり、岡田大司教が日ごろから強調していることでもあり、教会の本質を端的に示すイメージとして、わたしたちの教会のスローガンにとてもふさわしいと思います。
 ただしそのオアシスは、単に「ちょっとひとやすみ」的な、のどかな休憩所のイメージだけでは足りないのではないか。まずはそういう要素も必要だけれど、それにとどまらず、魂の命の死にかけた人々をぎりぎりのところで救う、緊急避難所としての役割もイメージするべきではないでしょうか。
 岡田大司教は東京教区ニュースの2月号で、「多くの人が生きがいを失っている、自死を遂げる人が減らないという状況を前に、本当に教会がオアシスの役割を果たさなければならないことを痛感しています」と語っておられます。確かに現代社会の非人間的現状は、もはや待ったなしの緊急事態であり、その意味では、現代ほど教会が必要とされている時代はないとさえ言える状況なのです。

 イエスの時代にも似たような状況がありました。だからこそ、その時代、その地域にイエスが遣わされたとも言えるでしょう。非人間的な状況下、多くの人が希望を持てずに苦しんでいる中、イエスは宣言します。「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)。これは言うなれば、「わたしがオアシスだ」と言っているようなものです。
 事実、イエスの語る福音とイエスの愛のわざは、神の愛と魂の救いに渇き切っていた民衆に、灼熱の砂漠の真ん中で冷たい泉に出会ったような感動と喜びをもたらしたのでした。そうして「歩くオアシス」として町や村を全力で巡るイエスの意識は、決して悠長なものではなかったはず。なにしろ、目の前に大勢の神の子たちが倒れているのです。一刻も早く、一人でも多くこの「永遠の命にいたる水」を飲ませたいという切羽詰った必死の思いがあったことは間違いありません。そのイエスの愛は、イエスの死と復活によってキリストの弟子たちに受け継がれ、いまやすべてのキリスト者が「わたしがオアシスだ」という自覚と誇りを持って現代の荒野に遣わされているのです。「一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ9・41)

 「砂漠のオアシスとなる教会をめざして」というスローガンを、単に建物としての教会や、組織としての教会とイメージして、訪れる人をおもてなしする教会として捉えるだけでは片手落ちです。まずは、このわたしが教会の一部であるという事実のもと、「わたしがオアシスとなる」という自覚と誇りが必要です。それはしかし、決して大変なことでも不可能なことでもありません。わたしは神に選ばれ、キリストが宿っているという信仰さえあれば、だれにでも出来ることです。
 「永遠の命に至る水」は、人間が作り出すものでも、人間が与えるものでもありません。それは神からあふれだし、キリストによって注がれ、キリスト者から流れ出すものです。ですから、ともかくも神の愛を信じて目の前の一人にかかわることこそがすべての出発点なのです。神のわざなのですから、だれでも必ずオアシスになれますし、実はすでになっています。考えてみればすごいことだと思いませんか。これほど救いの見えにくい、生きるのが困難な世の中にあって、わたしたちキリスト者は確実に人を救えるのです。
 目の前に倒れた旅人がいるとき、どうしたらいいのでしょうか。
 「この人にはオアシスが必要だ」と気付く人は銅メダル。「オアシスに連れて行こう」と決心する人は銀メダル。「わたしがオアシスだ」と信じる人が金メダルです。