巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

あなたの居場所が、わたしの居場所

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 辞書で「居場所」と引いても、たった一行「いるところ。いどころ」としか書いてありません。意味を説明すればそうなんでしょうが、実際にこの言葉を使っているわたしたちの実感としては、「居場所」は、単なる「いるところ」というだけではありません。もっと本質的でかけがえのない、人が生きていく上で欠かすことの出来ない特別な場所です。
 そこに自分がいていいところ。
 そこに自分がいてほしいと願われているところ。
 そこに自分がいることが自分の喜びでありみんなの喜びであるところ。
 手元の辞書では、居場所の用例としてひとつだけ「居場所がない」が載っていますが、もしも居場所がそのように他者から受け入れられるところであるならば、居場所がないということは絶望的に悲しい状況だということになります。それは、だれからもいてほしいと願われていないということになるのですから。

 東京教区の司祭の黙想会に参加してきました。「年の黙想」と呼ばれるもので、毎年約一週間行われるものです。今年の講師は、さいたま教区の岡神父様でした。岡神父様は、長年にわたり非行少年の世話をしてきた方で、現在も自分の教会にさまざまな問題を抱えた青年たちを住まわせ、彼らの更生に力を注いでいます。黙想会の講話の大半は、その青年たち本人が語る体験談で、毎日さまざまな青年たちが講師となって熱心に話してくれました。
 暴力団の家に生まれ、中学時代から暴力に明け暮れ、刑務所で8年間刑期を過ごして、出所後教会の友達を知り、回心して洗礼を受けた青年の話。
 非行に走り、少年院に送られる寸前に岡神父のところに預けられ、マザーテレサの所を始め数々の海外ボランティア体験によって立ち直った青年の話。
 薬物に手を染めて薬物依存症となり、入退院を繰り返した末に、薬物依存症当事者の自助グループ「ダルク」と出会って、そこの仲間に救われた青年の話、などなど。
彼らの話を聞いていて、ある共通点に気がつきました。
 彼らはもともと、とてもいい青年です。それこそ、神さまから尊い恵みをたくさん頂いて生まれてきたすばらしい神の子です。しかしその恵みは、悪い家庭環境や困難な社会環境、不運な偶発的環境によって閉じ込められています。ところが、ひとたび教会の友達や、ボランティアグループ、自助グループの仲間などの「良い環境」を与えるならば、それこそイエスのたとえ話にある「良い土地に落ちた種」のように、もとより備わっていた恵みが息を吹き返し、百倍の実を結ぶ。その良い環境のことを、彼らは口を揃えておおよそこんなふうに表現するのです。
 「あの仲間たちに出会えなかったら、今の自分はありません。それまで自分はみんなに嫌われ、だれからも愛されていないと思っていたけれど、彼らはこんなわたしを忍耐強く受け入れてくれました。彼らこそが、ついに見つけた自分の居場所でした。」

 今の若者たちは共通して「自分の居場所がない」という実感を持っています。ネットカフェ難民などはその象徴でしょう。でもそれは、大人も高齢者も同じかもしれません。家庭にも学校にも、職場にも社会にも、どこにも自分がいていい場所がない。現代社会は、居場所を失った放浪者たちの漂流社会と化しているのです。
 荒れ野のオアシスである教会は、まさに居場所を持てなかった、あるいは失った人たちの居場所であるべきです。居場所がないのは本人のせいではありません。なぜなら、他者から受け入れられる居場所を自分で作り出すことは出来ないからです。そんなこの世界にイエスが作り出してくださった究極の居場所こそが、教会なのです。
 そもそも、ペトロもパウロも、フランシスコもマザーテレサも、みんなイエスに招かれ、イエスに受け入れられて初めて自らの居場所を見つけた人たちでした。だからこそ彼らは、自らもまたイエスのようにみんなの居場所になっていったのです。わたしたちも教会という真の居場所を見つけることのできた恵まれた者として、多摩教会をみんなの居場所としていかなければなりません。
 みんなの居場所にするためには、自分にとって居心地がいい場所である以前に、どうしたらみんなにとって居心地のいい場所になるかを考えなくてはなりません。みんなが何を求めているかを知り、自分の時間と場所を削らなくてはなりません。でもそんな犠牲こそが、自分を生かすことにもなり、本当の喜びを味わわせてくれることになるのです。実は、だれかの居場所となれたときこそ、そこが自分にとっての真の居場所になるからです。
 「わたしの居場所はあなたの居場所」であり、「あなたの居場所がわたしの居場所」なのです。