わたしは、1987年に司祭に叙階されました。
若干29歳、困難を極めた神学校生活をようやく終えて晴れて司祭になり、さあ福音を語るぞ、救われた人々で教会をいっぱいにするぞと、はやる気持ちで胸はいっぱいでした。若気の至りではありましたが、純粋にそう思っていたのは事実です。
叙階されたその年、第一回福音宣教推進全国会議という大きな会議が開かれました。これは、第二バチカン公会議で示された「教会の刷新」を日本においても実現させていこうという流れの中、司教団の呼びかけで開かれたものです。叙階されたばかりの新司祭にとっては、この会議はある種、天啓のように感じられましたし、いよいよ日本のカトリック教会も本番を迎えつつあるのだなという、ワクワクするような思いがありました。
会議の課題は、「開かれた教会づくり」。
熱心な話し合いがなされ、翌年の1月には、この会議の答申に司教団がこたえる形で「ともに喜びをもって生きよう」という小冊子が出ました。そこには、今後の方針が明確な文章で次のように書かれてありました。
「私たち司教をはじめとして、神の民すべてが、教会の姿勢や信仰のあり方を見直し、思い切った転換を図らねばならないという結論に達しました」
「第一に、社会の中に存在する私たちの教会が、社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち合っていく共同体となることです」
「そして、裁く共同体ではなく、特に弱い立場におかれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したいと思います」
私は感動しましたし、そのような教会のために働けることを誇りに思いましたし、そのような共同体を目指して、微力ながらさまざまな工夫を重ねてきました。
特に主任司祭として一教会を任されるようになってからは、ちょうど2000年に岡田武夫大司教が東京教区長として就任し、ことあるごとに、「教会が開かれた共同体となるように」、「荒れ野のオアシスとなるように」と言い続けたこともあり、司教の手となり足となる一司祭として、ささやかな努力を続けてきたつもりです。
これらの、バチカン公会議が打ち出した「教会の刷新」、日本の司教団が課題にした「開かれた教会づくり」、岡田大司教が目指す「荒れ野のオアシス教会」という方向性が、まさに神のみ心であることは、それを信じて、そのとおりにそれを目指すと、どんどん信者が増えていくという事実で確信することができました。教会の姿勢を改めて、人々を温かくもてなし、福音のよろこびに満たされるオアシスのような共同体をつくれば、そこに人々が続々と集まって来ることには何の不思議もありません。それを求めている人が、周囲に何十万人もいるのですから。
福音に救われた人は当然、救いを求めている人に福音を語りますし、やがてはオアシスにまで連れてきます。多摩教会はこの6年間、「荒れ野のオアシス教会をめざして」というスローガンのもと、そんな人々を受け入れる共同体を目指してきました。もちろん、まだまだ理想に程遠いとはいえ、荒れ野をさまよっていた人たちから、涙ながらに「やっと見つけた」とまで言ってもらえる「教会家族」として成長してきたことは、事実です。それは、教会家族のシンボルである主日のミサに集まる人の数からも分かります。
各教会には、教会創立以来の受洗者を記録する「洗礼台帳」というものがあり、受洗のしるしとして主任司祭がサインする仕組みになっているのですが、さきほど確認したところ、私が着任してサインした最初のナンバーは420番で、現在は681番でした。
来週、待降節第一主日から、洗礼志願書が配られます。
来年の復活祭に、台帳の番号が何番まで増えるか楽しみです。その数字こそは、その教会がどれだけ開かれているか、どれだけオアシスになっているかを示す、とてもわかりやすい、ひとつの指標だからです。