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2009年1月号 No.425  2009.1.24

主イエスと出会い、再び出会うために
加藤 豊 神父
聖堂の屋根及び外壁改修工事のこと 竹内 秀弥

主イエスと出会い、再び会うために

                               加藤 豊 神父

「再 会
(ツァイチェン)」。
 中国語です。わたしの好きなことばのひとつですが、中国ではお別れの挨拶です。中国ではお別れするときに「また会いましょう」といってお別れしているわけです。
 日本語で読むと「再 会
(さいかい)」となります。同じ漢字二文字を書きますが、それは中国人にとってはお別れの挨拶で、日本人にとってはお別れした後にはじめて生じる状態を言い表す言葉です。
 そもそも古代中国の人たちは、「出会い」を「人の思いを超えた出来事」として体験していたらしく、それは仏教伝来以降、顕著になっていったようです。「袖触れあうも多生の縁」といわれるように、それ(出会い)は単に「人と人との関わり」という範躊では語り尽くせず、もっと違った次元の事柄であるという感覚が中国人にはあったといえます。従って、どのような「出会い」であれ、また、相手が自分にとってどのような人物であろうとも、お別れのときには普通「再 会(ツァイチェン)」です。なにしろ、はじめから「多生の縁」によって出会っているのですから。
 アーサー・H・スミスはその著『シナ的性格』のなかで述べています。「彼ら(中国人)とて、もとより幸せを望む。それは我々と同じである。しかし、思いどおりにいかない場合でも、彼らは自分の運命を呪わない」。
 そういう感性に比べると、精神性までなんとなく西欧化されてしまったわたしたちの人生観は、どこか東洋思想的な広がりを欠いて硬直したものに思えてきます。「出会い」というものについても、ともすれば「私的」で「現世的」なテーマとして扱われ、そのせいか、どうしても「一期一会」という側面には疎くなっている気がするのです。
 イエスは弟子たちとの再会を果たし、更なる再会を約束し、遂には「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」とまでおっしゃいました(マタイ福11:20)。
 わたしには、いつもお葬式の度に想うことがあります。それは、「死ぬこと」と、「いなくなること」とはきっと違うことなのだろう、ということです。「わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ福11:25)という命のことぱが響き渡る場で、参列者のなかには当然、生前の故人とは一面識もなかった人もいます。それでも「また会う日まで神の守りを」と、聖歌『神ともにいまして』をその人も歌います。これは意味深いことです。なぜならパウロは「ナザレのイエス」とは一面識もなかったのに、復活者キリストと出会い、そのイエス・キリストが終わりの日に再び来られることを待望していたからです。
「再 会(ツァイチェン)」。それは個人的な思い出の域を凌駕して発せられる掛け声。「白髪三千丈」の大地で古
(いにしえ)から交わされ続けてきた「天人一如」の合言葉です。

聖堂の屋根及び外壁改修工事のこと

                                竹内 秀弥

 この度の工事は11月17日から翌年1月13日までの2か月弱の工期でした。
 途中年末年始の休みが1週間入り、実質約7週間の工程にて行われました。このことは当初の計画の予定通りで、できれば降誕節前に外部足場が外せればとの要望を出したところ、作業時間を何日か延長したりして、スッキリした景観の中で、クリスマスを迎えることが出来ました。
 今回の工事で現場監督をされた中村建設の佐藤さんの話では、施工の時期としては良いタイミングで行われた。屋根には部分的に苔が生え、塗装も広範囲に劣化による変色が見られたので、今回の塗装により、屋根自体の耐久維持が保たれ、防水性も高められ、期待
耐用年数は7年以上であること、また壁面は今回の工事で、防水効果が高められ、表面の凹凸が無くなって汚れが付着し難くなり、耐用年数は10年以上との説明でした。
 すべての工事が完了した13日の朝、大変寒かったのですが、抜けるように真っ青な冬ぱれの空の下、すっかり新しくなったような聖堂を眺めたとき、大聖年の5月14日、献堂式の日の感動がよみがえって来ました。特に緑色の屋根は、全く献堂の日の色そのものでした。
 この後、第2期工事として、聖堂内部の設備類の点検、補修、駐車場の補修などが予定されますが、その時期や規模などに付いては、2月に行われる総会にて検討されることになります。

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