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2007年7月号 No.407  2007.7.14

「祭」 加藤 豊 神父
桜ケ丘地区集会報告 岩井 和子  

祭」
                           加藤 豊 神父  

 笛、太鼓、神輿、そして歓喜の声、これらはわたしにとって「祭」に伴う原初的なイメージ連鎖であった。最近では、各地の文化保存会の青年層が伝統芸を進んで受け継ぐケースも増えてきており、茶髪に鉢巻きをした人をよく見かけるようになった。ドレッドヘアーの娘たちがハッピを纏い、かけ声を交わしながら歩くその姿からは、どこか不思議な凛々しさが漂い溢れ、この時代特有の異文化交流に巻き込まれながらも地域に密着して生きようとする健康的な若い力を感じる。正直言って眩しいくらい魅力的に思われた。
 さて、わたしたちの「ミサ」もまた「祭」であることは周知の事実である。もとより「祭」はどこの国でも、あるいはどのような神話を持つ民族においても、神と民との交わりを深め、民の間に相互の交わりをもたらすものである。その根底には必ず素朴な感謝の念があり、日常的な平和が保たれるための非日常的営みという点で、人が人として生きる上での必須な側面となっている、といっても言い過ぎではないだろう。「祭」をとおして人間は「生」の「高揚感」をしらふのままに味わい、普段は隠されている大自然の神秘に触れ、生命の根源との繋がりを取り戻し、やりきれない孤独から脱却する。
 もっとも、こうした「祭」の秘密が表層意識の上で全ての群衆に了解されているかどうかはまた別問題であるが、いずれにしても「祭」のエキサイトメントは幼い子供から高齢者までが興奮を覚えるほどの力をその懐に秘めている。
 ところで、わたしたちの「祭」である「ミサ」は、といえば、一見して心身の「高揚感」や、驚くべき生命力の発露といった体験とは無縁であるかのように思われる。どちらかといえば、現状は逆ではないだろうか。ミサはその原初より「感謝の祭儀」と呼ばれてきた儀式だが、いつのまにか「生かされていることへの感謝」は据え置かれ、こんにち「癒し」、「慰め」、「寂静」が最優先的に求められている気がしてならないし、また別の見方から、「荘厳さ」や「美しさ」にばかり重点が置かれている気がしてならない。もちろんそれらが「どうでもいいことだ」とは、わたしも思わないのだが…。
 あるアイルランド人宣教師が言っていた。「ミサには手ぶらで来ないでください」。まさにそのとおりであろう。「感謝の祭儀」はわたしたちが捧げものをする場なのである。イエスがわたしたちのためにご自分をお捧げになられたように、わたしたちもまた、1)自分自身のために、また、2)民全体のために、そして、3)世の救いのために、父である神からいただいた一週間を携えて家を出る。そのわたしたちの捧げものは、祭儀中、パンと葡萄酒のもとに奉納される。こうしてわたしたちは命の与え主である方を中心に、命と命との関わり(既に亡くなった人たちをも含めて)を思い起こす。更に最後には、あらたな命を生きるために再び派遣されて行く(missaとは「派遣」という意味である)。
 インドでは司祭の入堂のときに花びらを撒くとか、奉納時に踊りはじめる地域もあるらしい。コンゴ(旧ザイール)の聖堂ではいかにもアフリカといったリズムが鳴り響く。欧米では「平和の挨拶」で握手を求め合い、場合によっては抱擁し合う。ヴァティカンでは今もなお中世ヨーロッパ絵画のような風景が展開している。これらの形態や習慣をわたしたちが故意に真似る必要はない。文化に優劣はない。
 もう少し身近な事例を語るとすれば、たとえば、朗読の後、侍者が発する「神に感謝」に応えて、会衆が「神に感謝」と応唱するかどうか、聖体制定の際、鈴が鳴らされるかどうか等々、典礼学的にみて決定的な問題とは成り得ない。それよりも懸念されるのは、ミサの理念とは無関係なところからミサが表面的に云々されてしまうことである。
 実人生を根底から支えてくれるはずの「祭」が、観賞用の心地よい刺激物にすり換えられてはならない(しかしそういう誤解が案外多かったゆえにマルキストたちからは「宗教はアヘンである」などといわれてしまっていた)。ミサが(一見そうは見えないとしても)歴史的には過越祭に連なる「祭」であること、しかもその「祭」はどこまでも集会(ecclesia)と不可分であり、一人一人のキリスト者はそこに「参加」して、洗礼の恵みである「祭司職」を用いて仕え合う。奉仕という理念の祭儀における実現によってこそ、わたしたちの究極目的である「神の国」の有り様は、極めて部分的にであったとしても、その場に浮かび上がる。


桜ケ丘地区集会報告
                           岩井 和子

7月8日、ミサ後、信徒会館で昼食をいただきながら桜ヶ丘の地区集会が行われました。
・地区委員2人制について
・軽食当番に関して
・教会にいらっしゃれない方への対応    
・司祭による信徒セミナーの開催
 加藤神父様を囲んで、上記のテーマを出席者IO名で話し合いました。
 地区委員2人制については、「2人制」にこだわらないが、新年度旧年度の2人で意思疎通ができ心強い.
 軽食当番に関しては当番の方が率先して任務をこなしてくださるので和気あいあい楽しくお手伝いができる。
 また当地区で教会にいらっしやれない方のためにできることは、名前を把握して、その方々のために日々の祈りの中でお祈りを捧げたい。
 今月から始まる司祭による信徒セミナーについては、「ミサについて」をテーマに話される予定で、内容としては神父様から理念に基づいている典礼のお話や御聖体を頂く側の心構え、また会衆を祈りに導く朗読の大切さなどを伺う予定です。また今回の集会では神父様から典礼聖歌を歌うときの祈りの気持ちの大切さなど貴重なお話も聞かせていただきました。有意義な時間が持てましたことを嬉しく思っております。
 神父様、出席者の皆様ありがとうございました。

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