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2007年5月号 No.405  2007.5.19

しあわせとは? 星野 正道 神父
赤ちゃんの目 猪熊 葉子  
神学院の現状について 岩藤 大和
南大沢・堀の内、地区集会報告 藤本 正典

しあわせとは?           
                        星野 正道 神父

 救いという言葉をもう少し日常的な言葉で言い換えるとすると「しあわせ」になるかも知れません。でもわたしたちはどんな時にこの言葉を使っているでしょうか。確認してみましょう。
1.しあわせとは快・不快?
 今まで軽自動車に乗っていたんだけど、こんど高級車に乗り換えたらとってもスピーディー。何たるしあわせ!
 外国旅行に行ったんだけど旅行社が間違いなくチケットやホテルを準備してくれたのでとっても快適だった。とってもしあわせ!
2.しあわせとは他人の目に映ったわたしの姿?
 だれも持っていないブランドのバッグをぶら下げていたらみんながうらやましそうに見ていた。とってもしあわせ!
3.しあわせとはわたしの目に映った他人の姿が与えてくれるもの?
 このごろイラクでは毎日のように自爆テロがあってとっても危険。でも日本ではそんなこと全然ない。なんとしあわせ!
 貧しい国々では毎日の食べ物にも事欠いている。幼いいのちが栄養失調で奪われていく。それにくらべて日本ではそんなこと全くない。なんとしあわせ!

 たとえばマザーテレサのVTRなんか見た後、多くの人がこんな感じの感想をのべてくれます。でも、こういうしあわせって続くのでしょうか。しばらくは続くでしょうが続いている間もいつなくなるか、という不安はなくなりません。このたぐいのしあわせのもう一つの特徴は見下げる対象がなければ手に入らないのです。でもわたしたちも人ごとではなくこんなところでしあわせを感じているのかも知れません。でも本当のことを言えばこれは一生懸命、しあわせにしがみついている姿です。

 ひとりの保育園に勤める卒業生が何年ぶりかでやって来ました。こんなふうに言って帰って行きました。 「忙しい中、大急ぎで我が子のお迎えにやって来たお母さんに『ありがとう、本当に助かっています』なんて言って頂いたりした時、この仕事きついけれどやっていてよかったなあとしみじみ感じ、しあわせな気持ちになります」
 実は、彼女に前回、数年前に会った時、仕事きついから転職しようかな、なんて言っていました。人はだれにも奪われない、だれのことも見下げなくてもなれるしあわせを自分の中から引き出せるようになっているんだなって若い人に教わりました。時間をかけてしあわせになりたいな、って感じたうつくしい5月の昼下がりでした。


赤ちゃんの目

                        猪熊 葉子

 車をやめたので、電車に乗ることが多くなりました。車で移動すると、人との接触がないうちに目的地についてしまいますが、電車だと思いもよらない経験をすることがあります。
 いつぞや優先席に座ってヤレヤレと思っていたら、なんとなくだれかに見られているな、という感じがしました。前を見ると、お母さんにだっこされた5・6ケ月くらいの坊やがじーっと私を見ていたのです。おやまあこんなおばあさんを見てなにがおもしろいのかな、と思いながら、あまりにも澄んだ目で心の中まで見すかされているような感じがして面はゆくなり、いつものとおり目をつむってあれこれと考えごとをしていました。次の駅に停車したとき、ふっと目を開けて前を見ると、あの坊やはまだ私をじーっとみつめているではありませんか。照れくさくなって私はまた目をつむりました。次の駅でも目を開けると、坊やの視線はまだ私に注がれています。こうして私が下車するまで、実に25分間彼は私をみつめ続けていたのです。実にまじめな顔でにこりともせずに。友だちにこの話しをすると、同じような経験があるといいました。赤ちゃんにはきっとこのように、じーっとものを見続けることが成長の過程で必要な時期があるのでしょう。
 こういう経験をしたあと、自分は何を、どのように見ているだろうか、と考えてしまいました。もちろん普通に生活している時に自然に目に入るものは別として、例えば電車の中などで人々が何をしているか見ているだろうか、と考えて見ると、殆ど見ていない、ということに気づきました。電車に乗ると眠いわけではないのに目をつむる癖があるのは、どうやら人に目を向けるのを厭わしく思っているせいなのではないだろうかと思われるのです。
 人は成長するにつれて、この赤ちゃんほどものを真剣に見続けることをだんだんしなくなります。つまり「目をそらす」ことを覚えてしまうからです。自分の関心を引かないもの、また見てしまうとかかわりあいになって面倒だ、あるいは危険だと思うもの、などなどに出会う時、見なかったふりをして「目をそらす」ようになっていきます。
 日常生活の中で私たちはどれほど多くのものから目をそらしながら生きていることでしょうか。本当は目をそらしてはいけないもの、直視しなくてはいけないものが沢山あり、その結果かかわらなくてはならないものがあるというのに。でもそれは仕方がない、生活の知恵というものだろう、といわれるかもしれません。現在の過酷な社会の中では、赤ちゃんのようにじっくりとものを見てはいられない。そんなことをすれば緊張を強いられ体がもたない、うっかりかかわりをもつはめにでもなれば危険を招くかもしれない。 目をそらすのは、自衛手段であって当然のこと、仕方のないことだ、と正当化し納得して暮らすのが世間の常識的な大人であるのかもしれません。私が電車のなかで目をつぶるのは、そういう自衛本能のせいなのかもしれないのです。
 でもそのように自己弁護をしながらも、キリスト者のはしくれとしては、内心忸怩たるものがあるのです。見ないふりをしていたために、消極的加害者になっている可能性もあるのではないかと思ったりするからです。
  「見るべきものは、見なさい、そして困難の中にいる人々を見たら助けなさい、それこそわたしがあなたがたに求める愛の発露なのではないのか、そういう愛の実践者になるために、あなたは自らキリストに従う者になったのではないのか」という神様の囁きが聞こえるような気持ちになるからです。
 詩編の中に、「わたしの時はあなたの御手のなかにあります」という言葉がありますが、それを「わたしの目はあなたの御手のなかにあります」と言い換えてみたらどうだろうか、などと思いながら暮らしているわけですが、「あなたは見た。それならかかわりなさい」という声が本当に聞こえてきたらどうしよう、と思ってびくついてもいるのです。でも「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神があなたのことを心にかけてくがさるから」(一ペテロ・5・6)という言葉を見いだすと、やれ有り難い、そういたしますと正直いって思うのです。


「神学院の現状について」 ―吉池神父様のお話しー

                        岩藤 大和

 復活節第4主日(4/29)は加藤神父様に代わって東京カトリック神学院の吉池神父様が主日ミサを司式されました。当日は世界召命祈願の日になっており、ミサ後聖堂で「神学院の現状について」と題して吉池神父様のお話しがありました。神学院は昨年秋、教会の遠足でザビエル祭にバスで参加したとろで関心も強く、多くの信徒がこのお話を聞きました。
 東京カトリック神学院は神学生を司祭に養成するところ。パリ外国宣教会のカンドウ神父様が初代院長として始められ、その後イエズス会による司祭養成カリキュラム(上智大学の哲学など)が行われましたが、1990年以降は司教団直轄となり司祭養成の独自カリキュラムに移行されるなどの経緯がありました。神学生は現在35名、出身は国内はじめフィリピン・台湾など国際化し、年齢層も20才代から最年長は50才代までと巾広く平均34、5才となっています。司祭になる迄の6年間には、様々な課程がありますが、一貫した共通点は、神様から頂いた信仰の恵を人々に伝え導くことを生涯の勤めとしていること。また神学生養成に掛かる費用は一粒会献金など全て教区から賄われているとのことなど、多岐に渡るお話しでした。
 最後に、司祭不足となっているいま、召命は数の問題としてではなく、司祭として一生を捧げることを志す若者を共同体の中で祈って欲しいと結ばれ、全員で司祭の召出しを願う祈りを祈り、お話しは終了しました。               

南大沢・堀の内、地区集会報告

                         藤本 正典

 5月12日(土)南大沢・堀の内地区の信者31名(子供を含む)が参加し、都立小山内裏公園パークセンターで、BBQを兼ねた地区集会が行われました。
 各自朝10時に集合し、爽やかな皐月晴れの下で、豊嶋さんに指導していただきながら、食材の下ごしらえ、炉で薪に火をつけ、携帯コンロを使って焼肉が始まりました。
 11時に、周囲を若葉青葉に囲まれた緑陰にシートを敷き、みんなで輪を作り、軽飲料で乾杯した後に、自己紹介を始めました。紹介を聞いてると、普段、知らなかった方が自分の近くに住んでおられることや、日本語が難しい方がおられることが分りました。また趣味や旅行などいろいろな日常のお話をうかがうことが出来、お互いに理解しあうことが出来ました。
 共通の信仰を持つもの同志が緑陰で輪を作り、開放された雰囲気の中で、趣味や日常の出来事を話し合いながら、お互い、意思の疎通を深めていくことは、大変有意義なことでした。
 ご参考までにメニューは、乾杯の時:ソーセージ・サラダ・ 焼肉
                 主食:鶏肉のトマト煮込み・焼きそば・焼肉
 環境保全のため、reduce、reuse、recycleをkeywordに、取り皿、お箸、コップ、お椀は各自持参、使用後はお持ち帰り、ご協力くださいました。参加費は一人千円でしたが、実際には600円で出来ました。
 爽やかな良い天気の中に、お体のご不自由な方が三人車椅子でご参加下さいましたことは大変うれしく感じました。本当に良い天気でした。

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