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2006年7月号 No.395  2006.7.22

インスタント 加藤 豊神父
スペイン・ポルトガルの巡礼から 大島 慶子  
サッカー交流会に参加して 李 吉 魯
聖書に親しむ 神井 貢成

インスタント

                                                加藤 豊神父

 先日、身体に悪いと知りつつもインスタント食品を食べていました。もっとも最近はこの手の食べ物も侮れず、製品中に各種ビタミンや食物繊維を含ませて、それなりに現代人の健康に応えようとしている意図が伺えます。とはいえ麺類の場合、ほとんどがフライ麺ですから、やはり食べ続けるのは身体にいいわけありませんよね。
 さて、その同じ頃、わたしは青年の仕事でミャンマーはパテイン教区の司教様とお会いすることになっていました。ミャンマーは仏教国(国教ではないが)で、カトリック信者は主に山岳地帯に居り、そこでひっそりと祈り、活動しているのが現状だそうです。都会に住む比較的裕福な人たちはほとんどは仏教徒です(仏教といっても日本や中国のそれとは違う出家主義のいわゆる「小乗仏教」ですから、わたしたちには想像し難い形態かもしれませんね)。
 以前、ミャンマーがまだビルマと呼ばれていた頃、ある高僧が来日しました。ところがそのお坊さんは日本を去る折にこう嘆いておられたのだそうです。「日本人は食べ物だけではなく、仏教までもがインスタント化されている」と。確かにいわれてみれば、南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽に行けるとか、ひたすら座るだけで悟りが開けるとか、表面的にはいわばインスタントな宗教性に立脚しているように思われても仕方がないでしょう(実際にはもっと奥深いものであろうと思いますが、皆が皆そこまでの関心はないでしょうから)。
 その昔「即席ラーメン」なるものがありました。そして今や「即席ラーメン」は、お湯を注ぐだけで「本格中華が味わえる」(かどうか個人差はありますが)段階にまで至りました。もともとわたしたち日本人の性格は短気に過ぎるところがあるのでしょう。信仰だけはそうであって欲しくないものです。というより、先ず、そうなることがないはずの領域なのです。
 情報も物品もほとんどのものが素早く手に入る現代、事を成すには時間をかけないことが美徳とされているこんにち、「信仰」という次元から産み出される発想は、日本の社会において、どちらかといえば反時代的な逆らいのしるしでさえあります。この点についてミャンマーの司教様のお話しはかなり直接的で、「骨太」で、ズッシリと迫って来るような内容でした。と同時にこのとき、自分がいかに現代日本特有の病
に侵されているのかを振り返る機会にもなりました。
 「福音」とは本来「神の国が近付いたというよい知らせ」であって、決して「自分に都合のよい知らせ」という意味ではありません。しかし、わたしたちは自分に都合が悪くなると信仰から遠ざかってしまう弱さを持っており、しかもそれをなかなか自分では認めたがらない頑さもあろうかと思います。
 「インスタント」は、はじめのうちは手軽で便利なものですが、それが続くとやがて毒となることを忘れてはなりません。イエスはおっしゃいました。「(みことば)を聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」(Mt 6:49)。


スペイン・ポルトガルの巡礼から

                                               大島 慶子

 この度5月18日〜29日までの聖地巡礼は、聖フランシスコ・ザビエル生誕500年を記念しての巡礼でもありました。
 旅のメンバーは35名、東京の松原教会から1名以外は、皆関西の方で知る人もない中に只一人での参加はとても心細く、不安がつのる中で徐々に決断したのです。しかし、当日、関西空港出発ロビーで、全員紹介ののち、皆さんが優しく言葉を交わして、目を合せてくださる。この心配は私の杞憂だったと、心細さも、不安も払いのけて、いざ巡礼の旅立ちとなったのです。
 この旅は、同時代のイグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルが、ある時は重なり、ある時は遠のきながら共に歩んだ宣教の道と、そしてサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の三つがテーマかなと思いました。
 バルセロナ郊外にあるマンレーサ(岩山)教会へ。この聖堂地下にある洞窟で、のちにイエズス会創立の聖イグナチオ・ロヨラが霊感を受けたという。岸壁の中に建つこの教会は厳然とした美しいものでした。
 ここからザビエルの故郷、ハビエルに着いた日は、生誕を記念したセレモニーがあって近県から大勢の可愛い子供たち、その家族が集まって、大変賑やかな祭りの最中でした。なんと広場には鯉のぼりが泳ぎ、尋ねると明日、日本の山口県から市長がザビエル500年祭のお祝いに来るのだという。山口県とこの地は友好関係にあるのだと気付きました。こんもり茂る森に囲まれたザビエル城は、中世の重厚さを保ち、まさに別天地で、ここに平和ありと叫びたくなる思いでした。この故郷からの第一歩が、ザビエルが東洋布教へと向かった道なのだと、思いを新たにしました。
 そして、バスは中世からの大巡礼地サンチャゴ・デ・コンポステーラ教会へと走る。車窓から見る巡礼路は、一面の麦畑が連なり、目に焼き付くような美しい田園風景が広がっている。20キロはあると言われる大きな荷物を背に、懸命に歩く巡礼者に拍手を送りながら、ついに終点サンチャゴ大聖堂に辿りつく。
 各国、それぞれの地から集まった溢れるばかりの巡礼者に混じって、今、この大聖堂の中に自分がいることの妙なる不思議、支えられている大きな力を感じる。国籍・言葉は違っても一つのミサに心を併せた尊い祈りがそこにありました。
 連日、素晴らしい好天に恵まれ歩いてきた、この聖地への想いが心の糧となり、日々の励みとなることを願いながら、感謝のうちに・・・・・

マンレーサ教会 生誕500年を祝うザビエル城 サンチャゴ大聖堂

サッカー交流会に参加して

                                               李 吉 魯

 さる6月25日(日)、教会間の相互交流を深める目的としてカトリック碑文谷教会にてサッカー交流試合が行われた。これは、多摩と碑文谷の「各教会間でサッカーの交流試合を行う」という呼びかけにより、都内の多数のカトリック教会が参加して行われたものである。
 会場に到着した私の目に飛び込んできたのは、美しいステンドグラスと壁画、そしてパイプオルガンの音、素晴らしい中世のロマネスク建築様式で建てられた聖堂の姿であり、あまりにも印象的で荘厳そのものであったことを覚えている。
 後から聞いた話によれば、この聖堂は1954年サレジオ修道会によって落成され、「江戸のサンタ・マリア聖堂」と呼ばれているという。
 いずれにしても、我々一行が到着した時には、他の教会の関係者らも続々と集まっており、エスコート係の出迎えを受けた。その後、それぞれ着替えを済ませ、グラウンドで軽い練習を実施した。
 試合は碑文谷・多摩・調布・上野毛・田園調布・大和の6教会による総当たり戦で、ハーフなしの15分で行われることになり、我々は少なくとも半分は勝つだろうと考えていた。しかし、序盤から若手中心の他教会の選手たちは、激しくボールを追いかけ、出だしも早く、非常に強いプレッシャーを与え、我々に自由にプレーをさせなかった。戦術的には、左右の裏のスペースを徹底的に狙い、ボールを蹴りこむスタイル、またワン・ツーで裏のスペースを取るなど、サイド攻撃に徹するスタイルであった。彼らはゴールが近ければシュートを打ち、非常に積極的な攻撃を仕掛けてくるチームばかりであった。守備の際には、必ず一人はプレッシャーをかけ、または数名で囲んで、抜かれそうになってもスライディングなど、体を投げ出してでも止めに入った。
 一方、我々は、彼らの厳しいプレッシャーに苦しみ続けた。結局我々の善戦も空しく、最後まで自分たちのサッカーをすることができずに全敗を喫し、最下位に終わった。
 彼らは前線から必死にボールを追いかけ、全力で向かってくる。決して技術力が高いわけではないが、彼らのファイテイングスピリッツとも言うべき闘争心を感じることができた。試合終了後には、参加者による「みことぱの祭儀」が行われた。その後、懇談会が開かれ、教会・年齢を問わず皆交流を深める場となった。
 私にとって今回の交流試合は、若手中心の他の教会から学ぶべきことが非常に多<、大変有意義な遠征であった。今度は我々のホーム、多摩教会にて彼らとともに汗を流し、是非とも今回の試合の雪辱を晴らし、教会間での交流を続けて行きたいと考えている。



聖書に親しむ
  ちょっと違った角度から(5)

                                              神井 貢成

 ”do not let your left hand know what your right is doing ”
   “右の手のすることを左の手に知らせてはならない”

 「施しをする時は右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 (共同訳・マタイ6章3-4)

 But when you give alms, do not let your lelt hand know what your right is doing,so that your almsgiving may be secret. And your Farther who sees in secret will repay you. ( New American Bible)

 マタイによる福音書にあるイエス様が山上の説教を始められた中の「施しをするときには」(6章)の箇所に示されている有名な教えあることは周知のとおりです。
 良いことをしたときに、誰しも、誰かに認められたい、褒めて欲しいと思うものです。しかし、イエス様はそれを敢えて隠せ、と教えられました。 何故でしょうか。
それは、誰も見ていないと思われていても実は神様がしっかりとその人の良い行いを静かに見届けているからです。そして、その良い行いをした人に対して神様は必ず報いて下さるからです。

 現代は成果を問われる世界であるが故に、それが本人の意図する結果ではなくとも結果オーライで他人から評価を下されることがあります。その場合、どうしても誰かに自分が行なった結果だと話さなければ自分の評価が下がるという現実が私達の前にはあり、一般社会では、たとえ結果オーライであったとしても「俺が、俺が」「私が、私が」と言わざるを得ないのでしょう。これは悲しいことなのではないでしょうか。

 中学生や高校生が帰宅途中の車中で自分の前に立たれた高齢者の方に笑顔で、時にははにかみながら、自分の席を譲る光景をよく目にします。その時、彼等、彼女等は車中の人達からの拍手喝采を浴びたいと思って席を譲った訳でありません。心の底から高齢者の方に何の損得も無しに席を譲ってあげたのではないでしょうか。 そして、彼等、彼女等はそのことを学校や家庭で人や家族に吹聴するでしょうか。そんなこともありません。人に吹聴したら、その行為の価値は一気に下がってしまうことをキリスト信者でなくとも知っているのです。つまり、良い行いをした時に、その行いをした人は他者からの評価や報いを望んでいたのではないです。そんな彼等、彼女等がかっこ良く(英語で言うCool)に映るのは私だけでしょうか。 聖書に書かれているように偽善者達のような行動にはならないように、心から気をつけ神様が喜ばれる行動をとれるように折りあるごとに祈っていきたいと思います。


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