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2006年6月号 No.394  2006.6.17

アイデンティティーを生かす 星野 正道 神父
司祭要請による地区集会に参加して 鈴木 紀子  
「信仰と光」全国集会に参加して 加藤 幸子
マリアさまを訪ねて 石塚 時雄

アイデンティティーを生かす     

                                                 星野 正道 神父

 ことばもある時生まれて来て使命を終えると消えていきます。まるで生き物のようですね。今、使われていることばでわたしの小さかった時には生まれていなかったことばがたくさんあります。そんな中のひとつがこの「アイデンティティー」でしょう。少なくとも日本語の中には入ってきていなかったと思います。そのものらしさ、独自性なんて言う意味で使われますが近年、教会の中でもよく使われます。カトリック教会のアイデンティティー、信徒のアイデンティティー、修道者のアイデンティティー、司祭、司教のアイデンティティー etc. きっとみんなが力を合わせて働くためには、それぞれのグループのもっている独自性や可能性をはっきりさせる必要があってのことでしょう。教会がもっとも効果的に働いていくための役割分担と言った発想でしょうか。
 しかし同時にこの発想の中に司祭、それはミサをする人、修道者、それは修道院で生活している結婚しない人、司教、それは司祭叙階をする人、といった限定的なとらえ方がひそんではいないでしょうか。もしそうなると司祭はミサさえしていればいい、修道者は結婚さえしなければいい、司教は司祭叙階さえしていればいい、ということになってしまいます。こうなりますとそこで言われている各人や団体はもう人間や人間共同体ではなく単なる機械の道具のようになってしまいます。どんなにアイデンティティーをはっきりさせたつもりでいてもその当人は人間として成長する機会をどんどん失って行きます。
 ではどうしたらいいのでしょうか?
 それには自分のアイデンティティーや個性、独自性といわれるものより一回り大きな世界との関係を意識してみることではないでしょうか。教会の中での立場はもっと大きな世界、たとえば父親であるとか妻であるとか、人類共同体のメンバーであるとか、この世界で共に生き、地球や大自然によって生かされているものであるとか、すでにこの世を去った人々をふくむ聖なる普遍の教会に所属しているとか、三位一体なる神さまにつつまれているとかといった、一回り大きな世界に対する感受性よってアイデンティティーは本物になっていくのです。そうです。そういった一回り大きな世界に支えられながら、そういった世界に奉仕しているのがわたしたちのアイデンティティーなのです。このセンスがイエスの根本的なアイデンティティー、「わたしは仕えるために来た」というイエスのこころとわたしたちをつないでくれるのです。
 日本という国のアイデンティティー、自分の仕事のアイデンティティー、多摩教会のアイデンティティー・・・・考え続けてみませんか。


6月10日司祭要請による地区集会に参加して。

                                                 鈴木 紀子

 全員の顔が見えるようにテーブルが配置された信徒館で、常日頃お顔は知っていても親しくお話しする機会のない方々と並んで座り、ミサが始まりました。多摩教会の原点である家庭ミサ、そしておよそ荘厳とは程遠いマンションの畳の部屋で,文字どおりひざとひざを突き合わせて与ったミサが思い起こされました。
 すぱらしい聖堂が与えられた事に改めて感謝し、同時に一人一人が近しく知り合い、心を一つにして祈ることの大切さを実感いたしました。良い機会を与えていただいた事に感謝。

 「信仰と光」全国集会に参加して

                                                  加藤 幸子

 今年も、5/27〜28に、奈良のカトリック野外礼拝センターで行われた、「信仰と光」の全国集会に参加してきました。(加藤家3名、石塚さん)
 今年のテーマ“平和”、各共同体がこの1年、テーマとして取り組んできた“キリストの平和を生きる”についての総まとめのような集会となりました。といっても、堅苦しいものではなく、それぞれの共同体が“平和”を象徴するものを持ち寄ったり、パントマイムで“平和”を表現したりと、笑いあり、祈りありの、なごやかな集いでした。知的ハンディをもった仲間たちも、昨年同様、あふれんばかりの笑顔や個性で、それぞれの存在を表現してくれました。
 多摩共同体のパントマイムは、知的ハンディをもった人たちによって、蒔かれた平和の種が、芽を出し、葉が茂り、空の鳥が巣を作るほどの大きな木になるという、神の国をイメージしたものにしましたが、内容は実に簡単。娘の晶子が「春が来た」の歌(は−るがきた は−るがきた どこにきた−)を歌っている間に、平和の種となった3名が、ニョキニョキ芽を出し、大きな木になって行く様子を、演ずるというもの。
  「信仰と光」でのパントマイムは、全員が参加し、福音を頭ではなく、体で感じようというもので、ふだん体験できない“何か”があります。枚方共同体のパントマイムは、毎月の集会でやっていることの再現でした。枚方では、集いの終わりにハンディをもったメンバーが、参加者ひとりひとりの頭に手をのせ、祝福するのが習慣になっていますが、それを再現してくれました。するとそれを見ていた、ほかの共同体の皆んなも、祝福をもらいたくなって、結局全員が、長い列になり、Kちやんや、Sさんから、祝福をいただきました。「信仰と光」の集いは、いつも、この調子で何が起こるか分からない楽しさがあります。
 この“解放感”は、どこから来るのかと思うと、やはり、集いの中心に知的ハンディを持った人たちが、いてくれるからで、彼らとのかかわりを通して、“キリストの平和”が実現してゆくのを感じることができます。平和、平和と叫んでもなかなか平和に近づけない現代ですが、ハンディを持つ彼らを受け入れ、彼らから学ぼうとする姿勢は、私たちが互いを受け入れ合い、自分自身をも受け入れることを可能にしてくれ、本当の解放である“キリストの平和”へと導いてくれるのだと思います。
 その意味で「信仰と光」はキリストの平和を求める者の、冒険の場であり、成長の場であると言えます。
 共に小さな冒険をしたいと思われる方は、いつでも、いらしてください。
 毎月第3土曜日(8月はお休み)14 : 00〜 信徒館IF。お茶とおやつ付き。

マリアさまを訪ねて
      都内教会訪問記(神田・浅草・上野)

                                                  石塚 時雄

加藤神父様は言いました、『ほとんどの教会にはマリアさまの像が屋外にあります』と。そこで、都内下町の神田、浅草、上野の三教会を訪ねてみました。
(1)神田教会
 JR水道橋駅を降りて、学生たちの列に入って専門学校が並ぶ街を10分ほど歩いたところに神田教会はあった。門を入ると古い聖堂が立ち、その正面にマリアさまが幼きイエスを抱いて立っている。マリアさまが私たち万民をやさしく包んでくれているようだ。深い母性が感ぜられた。門から聖堂にむかうと自然とマリアさまにお辞儀をしてしまう。
 私が前回、神田教会に来たのは4年前の3月のことだった。当時、六本木のクラブに勤務していた英国人女性ブラックマンさんが三浦半島で惨殺された事件が報じられ、しかも被害者のこの女性にマスコミは冷たく好意的ではなかった。彼女はカトリック信者であったことから稲川・澤田・幸田・荒川の4人の神父が彼女の追悼ミサを神田教会でやった。このとき私はこの4人の神父は勇気があるナ…と感じた。また幸田神父(今は司教)にはじめて会いお話を伺ったのも、このときだった。




(2)浅草教会

 次は私の古巣:生まれ育った浅草教会に来た。5月13日(土)13:30〜浅草教会の「信仰と光」の集会に参加するためです。浅草教会は台東区の鳥越の地・下町の街中にありながら小さな森のような木に囲まれています。樹木の中に小さな池、ルルドのマリア像、ベルナデッタ像がきれいに並んでいます。マリアさまはやや小さく、一生懸命に祈りをされています。それは、それは清らかな女性というイメージです。
 浅草教会の「信仰と光」は多摩教会の「信仰と光」とほとんど同じですが、都心部にあることから多摩以上に広く各地から多数の方が集まってきます。テゼの歌が多く歌われ、また「信仰と光」終了後の夕方から〔テゼの祈り〕集会が聖堂で行われました。大勢で、ともに一緒に主を賛美し、充実した一日でした。







(3)上野教会
 最後に今年5月28日(日)にマリア像の除幕式を行った、最新のマリア像のある上野教会を訪ねました。上野教会はJR上野一鶯谷駅の中間にあって、電車からよく見えます。道を歩いていて、ふと教会の門の中を見ると、深い黄金色のマリアさまが、両手を合わせて、ずっと自分を見つめている。マリアさまの目線が門の前を歩く人々に向けられていました。マリア像は多くが白色なのに黄金色なのに驚きました。ローマで購入したもので、材質は強化プラスチック。白柳枢機卿が教皇選出選挙でローマに行かれたときに選んでもらったのだと、ちょうどそのとき教会から出てきたご婦人が説明してくれた。もう素晴らし<最高のマリア像だ。こんなマリアさまを、ぜひ多摩教会にも…と私は望んでいます。








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