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2006年4月号 No.392  2006.4.8

永遠性への憧憬 加藤 豊 神父
『三尺三寸箸』  萩原 スミ子  
聖書に親しむ3 神井 貢成 


永遠性への憧憬
                                                  加藤 豊 神父

 今年も四旬節を経て、ようやく復活祭の喜びを迎えようとしています。皆さんはどのような気持ちでこの四旬節を過ごしておられたでしょうか?「四旬節」と聞くと、大概「犠牲」「償い」というイメージの連鎖が生じます。実際それは正しいことです。が、しかし、四旬節においてもっとも大切なことは、闇から光へ、罪から恵みへ、死から命へ、という魂の移り往き、また、その体現者となる洗礼志願者と共に過ごす季節であるということです。
 復活という神秘によって、信じる者を永遠の命に導いてくださったイエスは、その喜びに入る前に、尊い「受難」に向かわなければなりませんでした。この「受難」こそ、万民救済へのプロセスです。こんにちのわたしたちの救いも、そこに結びついているのです。
 誰の人生にも例外なく訪れる苦悩、たとえば「四苦八苦」という言葉がありますが、これはもともと仏教用語で、この「四苦八苦」から脱却する方法論の展開が仏教信仰上の営みといってもいいほどです。原始仏教の「阿厳経」には次のように述べられています。「これは我がものと思ってみても、そもそも自分自身が自分のものではない(諸法無我)。もしこの人生が我がものならば、すべて自由にできるはずである。しかし、思ってもみない時に病気になったり、いつまでも生きていたいのにやがては死が訪れる、この人生は無常である(諸行無常)」。
 そうです。わたしちは「無常」に耐えられず、「永遠」を希求してやみません。たとえやっかいな現状から眼をそらしてみても、何の解決にもならず、刹那的な気分が増すだけとなりましょう。ありがちな現実逃避に一時的な効果を認めても、その後は過酷な現実がいっそう過酷に感じられてしまうことでしょう。しかもこうした現実逃避は、種々の信仰に潜む罠でもあり、わたしたちをして健全な信仰理解とは正反対の「思い込み」に閉じ籠めてしまいかねないこともあります。
 ありのままの世界、ありのままの人生、しかしそれはあまりにも「苦」であり、あまりにも「無常」です。そこから救われるためには、やはり落ち着いて自分と向き合い、救いへの正確なスタート地点を定め、最終目的地を定めねばならないでしょう。日々わたしたちが負っている重荷、みずからの存在に関する労苦、それらをこそイエスは一緒に負ってくださるのです。それにも関わらず、現代に生きるわたしたちは、しばしばこうした重荷や労苦そのものを取り去りたいと望んでしまう傾向を持っています。
 現代社会は快適さを追求する時代であって、「苦労しないこと」の延長線上に救いを求める人が多く見受けられますが、果たして信仰とはそのようなものであるのかどうか? 永遠性への憧憬は、人間にとって救いの必須条件であり、その源泉と、その衝動とは、常にわたしたちの心の奥深く動めいています。だからこそ苦しくなるのです。しかし、それが妥当に方向付けられるならば、おのずと「希望」を生ぜしめるほどの豊な泉となって、命の躍動、困難を乗り越えて生きるためのエネルギーとなりましょう。永遠性への憧憬という、この地点に立って、みずからを、そして身の周りを眺めてみると今までとはまた違ったものが観えてくるのではないでしょうか?

『三尺三寸箸』
                                                   萩原 スミ子
 『三尺三寸箸』これはあるレストランの店名ですが店の宣伝をするのではありません。昨年、郷里の鹿児島に行った折、親戚の者達と飲食街を歩いていた時、店頭に大きな巻紙風に書かれた看板に目が止まりました。そこには数年前、フイリッピンから多摩教会に西本神父様がいらした時、お説教の中で話されたことが書いてありました。ご記憶の方もいらっしやると思いますが、神父様は中国の話だそうですと話されました。
 『ある人が神様に天国と地獄を見てみたいと申し出ると先ず地獄の部屋に通されました。丁度食事時で食卓には沢山のご馳走が並び長いお箸で自分のロに入れようとするが食べることができず、皆痩せて暗い顔をしていました。次に天国の部屋に通されました。そこにも同じように沢山のご馳走を長いお箸で皆ニコニコして楽しそうに食事していました。自分のロに入れるのではなく向かい合っている人のロに入れてあげて自分は向かい合っている人に入れてもらってそれはそれは楽しい食事風景でした』という内容でした。ところが看板には地獄のことで終わっていました。どうして天国のことが書いてないのか気になったのですが連れの者達が先に行ってしまい、追いかけて行動を共にした為その店に入ることが出来ないまま帰京してしまいました。ひと月後再び帰郷する機会があり、その店に行ってみました。天国の話はランチョンマットに書いてあり“他人のために生きることによって、自分も幸せになれる”というのが店名の由来ですとありました。

 先日、新宿のビルの中で同じ店名のレストランを見かけてこの話を思い出し拙い文にしてみました。因みにこの店には看板の文字はありませんでした。

 ある主日のミサのお説教で加藤神父様は“皆さん!天国に行っても忙しいのですよ”とおっしやいました。天国でも忙しい?とは思ってもみませんでしたがきっとそれは愛の業で忙しいのだと思いました。命の本質である大きな愛によって生かされている私達は想像もできない程慈悲深い世界にいくのでしょう。自分中心から他人を思いやる方向転換が回心と癒しに結びつくのだと思うのですが・・・。

聖書に親しむ
   ちょっと違った角度から(3)
                                                    神井 貢成
 キリスト教国の人たちが聖書からの言葉を折に触れて故事、ことわざとして日常の生活の中で多く使っています。私たち日本人も同様にそれらの言葉をことわざとして使っているのですが、気がつかないでいることも多いのではないでしょうか。今回は聖書の言葉そのものとしては使うことは少ないが、同様の意味で表現を変えて使っている表現もご紹介します。

            "Pearls before Swine"
               “豚に真珠”

 「神聖なものを犬に与えてはならず、まだ、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向きかえってあなたがたlこかみついてくるだろう。」 (共同訳マタイによる福音7章6)

 Do not give what is holy to dogs, or throw our pearls before swine, lest they trample them underfoot, and turn and tear you to pieces.
 (New American Bible)

 「豚 に真珠」とは、高い価値のあるものでもそれのわからない者には無価値に等しいことの喩えとして一般的に使われています。換言すれば、価値のわからない者に、価値のある物を与えても無駄だ、と言う意味で使われます。このことわざに類するものでは、「猫に小判」、「犬に論語」、「馬の耳に念仏」などがあります。『猫に小判』は責重なものを与えてもなんの反応もないことを喩えています。それが転じて、価値のあるものでも持つ人によって何の役にも立たないことを言い表すようになったようです。
 現代のわたしたちは、「豚に真珠」よりも「猫に小判」のほうが馴染み深いかもしれません。
 
 聖書には、たびたび『豚』が登場します。イザヤ書(65章4、66章3,17)では食用とされ、異教徒の祭儀に用いられ、箴言(11章22)、ペテロの手紙U(2章22)などに豚が軽蔑の日で見られていたこが伺えます。ルカによる福音書(15章15)では豚飼いになることはひどく落ちぶれたことであることを窺わせています。

 わたしたちは『豚』にならないように神の尊い教えを享け、愚か者にならないように復活祭を前にしっかりと努めていきたいと思います。

 ちなみに、Swineは英語の文語で使われる単語で、『豚』の意味のほかに「下品な人、いやなやつ(物)」という意味もあります。現代ではPigが一般的に使われます。

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