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2004年10月号 No.374  2004.10.23

あるとき教会は・・・ 加藤 豊神父
バザー 小田切 真知子
レバノンで 高橋 英海
シニアの集いに出席して 中村 安男
改宗式から アヴィラ・テレジア 郡司 真理子
野田 新太郎さんを偲ぶ 竹内 秀弥

あるとき教会は・・・

                                     加藤 豊神父
 あるとき教会は、わたしにとって町の「床屋」のようでした。「いきなりなんだよ!」と思われるかもしれませんが、その頃のわたしにとって教会はまさに家の近所の床屋さんのような場でありました。
 いわゆる「小教区」、一般的に、かつ狭義に「教会」と称されるもの。「カトリック○○教会」という共同体、およびその建物と、そこでの活動。最近では「聖堂共同体」と呼ばれることが望ましいと考えられている「それ」ですが(どのような人たちからそう考えられているかはともかく)、かってのわたしにとって「それ」は理髪店の如きものに思えたのでした。
 何故かというと、床屋に行くと差し当たり取られるものが三つあると思います。「髪の毛」、「時間」、そして「お金」です。物理的な意味では文字どおり取られるものばかりで、何かを得ているとはいえません。ところがそこでは目に見えない何かが得られます。「物理的でない」、「目に見えない」からこそ、余計ありがたいともいえる何かだと思います。舞台を床屋さんに置き換えるなら、ちょうど、髪を切り、髭を剃り、なんとなくさっぱりとした心持ちで店を出る感覚。当時わたしは、そのようなターニングポイントを通過して、新たな気持ちで再び日々の生活へと向かっていったのでした。
 教会もこれと似たようなところがある気がしていたのです。いつのことでしたでしょうか、ある人から「教会に通っていて何かいいことでもあるのかい?」と訊かれたことがありました。わたしたちの信仰は、世にいう「ご利益」が中心ではないため、いいことがあるかどうかを具体的なかたちで答えることは困難なので、わたしとしては教会にいって自分がしていることを一つ一つ話してみたところ、「お前さんの話を聞いてると、奉仕もし、献金もし、ってことだが、それじゃ取られるもんばっかりで時間の無駄だな」と。そのような状況下、わたしは教会を床屋さんに例えてその人に説明してみたのです。すると、なるほど、という感じで多少は理解してくれていたようでした。
 今思えば、わたし自身、信仰生活をとおして一週間を乗り越える力をいただいていたのは確かでしたし、教会の人間関係に支えられ、励まされ、日々を過ごせていたのも事実でしたから、わたしにとって教会は普段、意識していない場合でも生活の前程、あるのが当然であるかのような床屋さんの如きでありました。この他にも「教会」と「床屋」との共通点はあろうかと思いますが、とりあえず、今回はこの辺で‥。


 “バザー”

                               行事部 小田切 真知子
 皆さんの願いが通じ、当日は朝から快晴に恵まれ、バザーが開催されました。
 各地区が分担した売場からは、食欲をそそわれる香りもたち上り、楽しそうにおしゃベリとともに食事をとられる方々の笑顔が印象的でした。教会学校の子供達もヨーヨー、ビンゴゲーム、綿アメを受け持ち、特にビンゴゲームでは子供達の進行で楽しいひとときが持てました。
 今回はじめて、エントランスホールでも献品の販売が行われました。掘り出し物を探す人々でにぎわいました。今回は近隣の人々も来てくださり、チラシ配布の効果もあったようです。「毎年楽しみにしています。娘と一緒に来てますのよ…」と年配の御婦人から声をかけられました。教会内の人々の交流だけでなく、地域に開かれた教会、そして地域の人々との交流がおこなわれるきっかけのひとつになれるバザー開催も今後の課題にしたいです。
 前からの準備、当日早朝からのお手伝い、そして後片付けと、皆様ほんとうに御苦労様でした。当日の純益は建設資金返済の為の献金とさせていただきます。

10月17日晴天のもとバザーが開かれました 子供たちのビンゴも盛り上がりました
掘り出し物を探す人々でにぎわいました ヨーヨーもなかなかの人気でした

レバノンで

                                     高橋 英海
 九月の下旬にレバノンで開催されたシリア語学会とキリスト教アラビア語学会に出席する機会を得ました。ここで「キリスト教アラビア語」と聞いて、「おやっ」と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。アラビア語とか中東というのはあまりにも密接にイスラームと結びついているからです。しかし、考えてみればキリスト教はもともと中東で生まれた宗教ですし、今でもエジプト、パレスチナ、シリア、イラク、イラン、トルコなどには古代から続くキリスト教徒のコミュニティーが数多く残っています。そのようなキリスト教徒の多くがイスラーム以前から用いていた言葉がシリア語で、これはキリスト自身が話されたアラム語に非常に近い言葉です。七世紀のイスラームによる征服以降はキリスト教徒も多くはアラビア語を話すようになり、中世から現代に至るまでアラビア語でも神学書やその他のキリスト教関連の作品が数
多く書かれています。
 学会が開催されたレバノンは中東ではキリスト教徒の比率が一番高く、人口のほぼ半分を占めています。そして、そのキリスト教徒とイスラーム教徒の間で1975年から90年代初頭まで激しい内戦が続いていたことはご存知のとおりです。停戦が成立してから10年以上が経ち、経済復興は着々と進んでいますが、ベイルートの街中では、壁に残った弾痕や廃墟と化したままの住宅など、今も残る戦争の傷跡を所々で見かけましたし、人々の心の傷跡も完全には癒えていません。レバノン人の研究者と話していて、戦争で失った従兄弟に触れたときの彼の悲しげな表情が忘れられません。
 戦争と言えば、今回の学会にはイラクの研究者も参加していました。現在のイラクでは治安が劇的に悪化している上に、キリスト教徒は米英の手先と見なされ、教会がテロの標的となる事件が特に今年に入ってから増えています。「最近では街を一人で歩くこともできなくなったし、夜も不安で眠れない」と語る女性研究者のナディーラさんのこわばった顔が印象に残ります。
 学会の最中にはレバノン各地の教会や修道院を訪れる機会もありました。中でも印象に残るのはレバノン北部の「聖なる谷」カディーシャー渓谷の修道院です。標高3086メートル、旧約聖書の時代からレバノンの象徴となっているレバノン杉の植生地としても知られるコルネト・エッ・サイーダ山に見下ろされ、周りを断崖絶壁に囲まれて横たわるこの渓谷には古くから修道士が住みつき、朝夕の祈りに時間には崖の洞窟にある無数の庵から立ち上る香の煙が雲のように谷中を覆ったと言われています。今でも機能している修道院は少数ですが、そのうちの一つ、カンヌービーン修道院は15世紀から19世紀までマロン教会の指導者(総大司教)が住処としていた所です。急峻な斜面に半ば食い込んで建てられた素朴な修道院ですが、ちょうどここを訪れていたとき、海の方から湧いてきた雲が静かに眼下の谷を覆い、あたかも今でもこの谷を満たす古の聖人たちの祈りを象徴しているかのようでした。

追記:上の記事を書いた後に、10月16日(土)早朝にバグダード市内の五つの教会でほぼ同時に爆弾テロがあり、大きな被害を出したとのニュースが飛び込んで来ました。この他にも、外国人を対象としたテロと違って国外ではほとんど報道されていませんが、イラク人キリスト教徒を狙った誘拐殺人事件のニュースも絶えません。このようなテロ行為を通してイラクから全てのキリスト教徒を追い出すのが過激派の目論見であり、イスラーム以前から二千年来続いてきたイラクの教会は今瀕死の危機にさらされています。イラクの全ての人々に一日も早く平和な日々が戻るようにお祈りください。また、イラクの教会の現状についてより詳しくお知りになりたい>方は
www.zindamagazine.comをご覧ください。
ベイルート北郊、ジュニエ湾を
見下ろして立つ「レバノンの聖母」
カンヌビーン修道院礼拝堂
後陣の壁画
カディシャー渓谷

シニアの集いに出席して

                                   鶴牧 中村 安男
 秋晴にしては暑い日だった。9月19日、信徒館にシニアの人たち43名が集い、盛大にシニアの会が催された。私自身、満70歳になったばかり、残りの人生のカウントダウンが始まったと思うと、ぞっとする。
 平均寿命が伸びた近頃は、70歳といえども元気溌剌の人の多いのに驚いている。中国の詩人杜甫が『人生七十年古來稀也』と詠んだことが由来ときくが悠々自適な生活はなかなか望めそうにも無い。まあ、古稀を長寿の始まりと思い出席することにした。
 会の進行は、食前の祈りに聖歌キリストの平和を合唱して始まった。梅酒の乾杯のあと、大変お美味しい懐石弁当を戴きながら、神父さまの祝辞、そして海野さん、川島氏、八巻氏の代表の挨拶があった。
 海野さんの話は、さすが年輩だけあって、含蓄のある話が聴けた。特に印象深いのは、学生の頃、日本は平和で自由で楽しく勉強や遊びも出来た良き青春時代だった。と聴いて大いに感銘した。川島さんの話は、結婚前、奥さんの歌う美声に魅せられて洗礼と結婚をしたと言って、ドッとわいた。八巻さんは、多摩教会の創立当時の思い出話しから、現在、信徒数700名を越えるようになったことを感慨深げに話された。
 会場の前のスペースに並んだ大勢の小学生やチビッ子たちの歌声と中高生の弾くギターの響きが会場を盛り上げた。僕の小学生の頃は、戦中戦後の食糧難の貧しい時代だった。毎日芋ばかりの食事で生きるのに懸命だった。平和な今の幸せをつくづく感じさせられた。次に、川島、下津両婦人のデュエットは、なじみ深い懐かしい唱歌で会場に集まった人々も一緒に歌い、賑やかに楽しみました。
 この催しを準備された方々に心より御礼を申し上げます。これからの私の人生の根底にあるものは、過去の思い出を大切にしながら、さらに前向きに生きることです。そこで、冬のソナタに泣き、映画パッションのキリストに大泣きし、初孫の誕生に喜び、山河紅葉を妻と共に楽しみ、ミャンマーの友人との約束を果たすために、もっと頑張りたいと思います。ミサの説教に反省して立ち上がり、キリストの『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる』のみことばを信じて、探し求め続けたいと思っています。



改宗式から

                          アヴィラ・テレジア 郡司 真理子
 語りかけてくる声を“主”と憶えたのは小学校にも行かない頃でした。あまり度々聴こえるので、私の独り言かと幼いなりに思ったりもした。けれど、この年では知るはずもない事や、ずっと先の事まで即答される声に「神様だね」と返事をしたりもした。
 その声と共に年月が過ぎ、望まない答えを聴いた日、目を閉じ、耳を塞ぎ、声から逃げて行った。一人で冷たい夜の海へ漕ぎ出した。声とは反対側の道を撰んで歩き続け、全ての事は声の言うとおりになっていった。
 すでに知っていた事柄に、あえて足躓き、その中に身を投げ、苦しみながら、もう、息が止まると思った夜、そっと握ってくださった右手。 このわからず屋の一生涯の宝となり、主に跪いたのでした。どれほど背いて来たか、しかし、声の主には、必ず私が両手を広げ、泣きながら、名を呼び続け、泥だらけのまま、もがきながら“御自分を探し求める日”を知っておいででした。
 どのような場所へ落ちて行ってしまっても、話されることなどない右手は、しっかりと私を引き戻し、許し、清めてくださいました。目をしっかりと開けて、主を見つめて、あの声の内に恵みの海に戻りたいと心から求めた時に。
 聖体拝領。聖霊のお導きによって、このような私が主イエス様の内に入り、そして、私の内にイエス様をお迎えしたという最上の喜びを与えられ、これほどの恵みと慰めを頂けた事は今迄ありませんでした。
 遠くから戻って来た子供を何倍も可愛がってくださる神様は、御自分へ向かって歩きはじめた霊に対して、無限の豊かさをもって道を示し、与えてくださいました。神様の霊が、神を知り、触れ合う喜びへとお連れしてくださいます。
 祈りは、賛美と感謝で作られ、どのような形であっても神に望みを託すことは、私の人間的な時間を神の望まれる聖化に向けて捧げる事なのではと思います。私は長い年月を許されて使いました。神の御前に於いては、自分の霊以外何も必要でないと知る為に。神への愛にこの身を委ね、恵みのうちに感謝と賛美を捧げます。
 皆様に、多摩教会の一員として迎えてくださいました事、心からお礼を申し上げますと同時に、これからよろしくお願い致します。又、神父様からは、ごミサと会話の中より本当に多くの神よりの賜物を与えられ、その度毎に目の覚める思いでした。神が、気さくな神父様をこうしてお使いになられるのだと感じ、心底うらやましくなりました。そして、代母となって頂いた江口さん、シスター・オジリア様ありがとうございます。
                                愛と感謝を込めてアレルヤ


野田 新太郎さんを偲ぶ

                                    竹内 秀弥
今年の前半はご高齢の方が相次いで帰天され、その意味では多摩教会の人それぞれに悲しい思いを経験されたことと思います。
 野田新太郎さんが帰天されたのは5月16日、日曜の早朝でした。我々にとっては全く突然の知らせでした。腰椎に異常があって苦しんでおられることは存じ上げておりましたが、まさかこんなに早く亡くなられるとは想像も出来ず主日のミサの前に訃報に接した時は皆が「えー、まさか!」と、信じられませんでした。葬儀ミサで侍者をつとめた私にも、この事態はなかなか理解できないことでした。
 野田さんは、ご自分であまり語られることは少なかったのですが、特攻隊の奇跡的な生き残りの一人として、何か我々には分からないような重荷を背負って生きておられたのでは。職業人として立派なキャリアーを終えられてから、その十字架の意味はますます大きくなってきたのでは、と思えます。
 昭和18年に学徒出陣で海軍に入隊し、土浦航空隊で訓練を受けた後、徳島海軍航空隊に配属されました。同期生には茶道家元の千宗室さんがおられました。
 終戦の年、特攻隊として出撃したが機体の不調、悪天候も重なり、燃料切れで目的を果たせずに屋久島に不時着し、島の人たちに救出され、九死に一生を得られたそうです。
 会社を定年退職された後は、果たすことの出来なかった、この戦争の悲劇への反省と、教訓を活かす活動に尽くされました。度々屋久島を訪問され、命の恩人である方々に感謝の気持ちを伝え、何よりも特攻隊で出撃、戦死した仲間の慰霊とその家族を慰問されました。このことは日本全国津々浦々に及んだそうです。そして趣味の陶芸教室で学ばれた茶碗作りに、磨きをかけられ、遺族の皆さんへ「聖霊」と「鎮魂」の文字入り茶碗を贈られました。
 さらに若い世代の人たちに戦争の悲惨さを告げ、二度と戦争が起きないことを強く願うため、多摩市の小学校を訪れて、戦争の体験談を語り、その悲惨を繰り返してはいけないと話されたそうです。
 この野田さん鎮魂茶碗作りのことは、2000年8月16日、朝日の朝刊に大きな写真入りで、紹介されました。また葬儀の当日、裏千家の家元が教会に来られ、遺体に献茶をされて、戦友・茶の友との別れを惜しまれました。そして多くの戦友が通夜や葬儀ミサに列席されました。
 野田さんが私たち教会に残された思い出として、幾度となく侍者として祭壇奉仕をされ、そのことをとても喜んでおられたことや、シニアのお祝いで、戦争体験を披露されたことなど種々ありますが、これから先も平和を願う多くの人々の中で生き続けられる事を祈りたいと思います。近頃、少し元気をとり戻された奥様を始め、野田さんの人生について教えて頂いた方々のご協力に感謝を申し上げて、追悼の言葉を終わります。

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