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2004年8月号 No.372  2004.8.7

1 すべての前提は神さまだった
加藤 豊神父
2 教会学校の合宿に参加して 塚本 清
3 キャンプの思い出 子供たち
4 “信仰と光”サマーキャンプに参加して 石塚 時雄
5 2004 マリアポリに行ってから 車 貞ミン
6 サレジオ6教会壮年会へ参加して 松原 睦

 すべての前提は神さまだった

                                加藤 豊神父
 暑い日が続いています。「夏は暑いもの」、これはいわば一つの前提でもあります。それにしても最近は暑過ぎます。そして、その昔、誰もがこう考えていました。「使わないお金は銀行に預けていれば(否、むしろ)そのほうが得だ」と。これもいわば定説であり、常識であり、銀行の磐石さは疑い得ない「前提」とされていたことでした。
 ところで、今世紀、この「前提」が至る所で瞬く間に失われ続けている現実に、わたしたちは直面しています。また、それに困惑し、ゆえに未来にも憂いを抱かざるをえなくなっています。
 さて、先日、年間第18主日のミサの中での福音箇所を、皆さんは覚えておられるでしょうか? そこには一生遊んで暮らせる程の財産に恵まれた人が、収穫を蓄えるために倉を建てるという、イエスの譬え話が記されていました。そして、その譬え話の主人公は、その日の晩に死んでしまうことになるのですが、その後、その人は自分が持っていた財産をすべてこの世において逝くことになるわけです。一生遊んで暮らせるどころか、その日のうちに無一物でこの世を去らねばならないその主人公をして、イエスは「神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とおっしやいます。
 豊かさは生きていればこそ享受できる、という意味で、生きていることは世の豊かさを享受するための前提であり、その第一条件でありましょう。しかし、実は命そのものが決して恒久とはいえない限りあるもので、「生きている」ということは常に揺るぎない前提とはいい難いものであります。この点、まさに「一寸先は闇」とは、けだしよくいったものだと思うのです。
 それまで前提としていたことが揺らぎはじめる時、人はいいようのない不安に襲われ、場合によっては今まで自分が一生懸命にしてきたことが、なにやら空しく思えてくるような、そんな気持ちになってしまうのかもしれません。「神の前に豊かになること」とは、そのような空しさから癒されていることであろうと思います。すべての前提である方を頼りにして生きる生活(信仰)によってはじめて人は根源的な不安に打ち勝てるという証を先人たちは示してくれたのでした。
 移ろい易いものを幸せな人生のための安易な前提としてしまいがちなわたしたちでありますが、しかし、安易な前提にうかつに頼ることとは正反対に、揺らぐことのないすべての前提である方(神さま)によりどころを置くとき、そこではきっとわたしたちの幸福感にも変化が生じ、いつもは絶えることのない所有欲から解放され、普段あまり意識されることのない隠された宝物(神の前での豊かさ)を、みずからのうちに見いだせるのではないか、という気がしているのです。猛暑の中にあって。


  教会学校の合宿に参加して
                      
                                     塚本 清            
 今年の教会学校の小学生対象の夏期合宿は、7月27日(火)から29日(木)まで神奈川県藤野町にある藤野芸術の家で行われました。参加者は部分参加の人も含めて、小学生11名と大人9名でした。
 1日目は、昼食後に教会に集合して、聖堂でのお祈りのあと出発しました。はじめに相模湖まで行き、遊覧船に乗りました。それから芸術の家に向かい、到着後お風呂に入り、夕食の後この合宿の日程の説明を聞き、歌の練習をしてから花火をしました。 2日目は、朝起きてすぐに部屋でミサがあり、午前中はハイキングに出かけました。途中少し道に迷いましたが、無事秋山川の河原に到着しました。帰りはバスに乗って芸術の家まで戻り、外でお弁当を食べました。午後は芸術の家の中にある工房で工作をしました。オカリナに色をつけたり、木の材料で作品を作ったり、木で昆虫の工作をしたり、ガラスに模様をつけたりしました。今回の合宿の記念になるものができたと思います。その後は自由時間になり、ボールで遊んだり、近くの河原まで行ったりしました。夕食後は8月の子どもの奉仕によるミサの分担を決めた後、みんなでゲームをしました。
 3日目は、午前中に芸術の家を出発して、教会に戻る途中で津久井教会に寄って、ミサをしました。いつもと違う雰囲気の中でのミサでした。お昼ごろ教会に戻ってみんなで感謝の祈りをしました。この3日目だけが雨でしたが、ほかはとてもよい天気に恵まれました。
 この合宿では、楽しいことも多く、ふだんあまり話さなかった子供同士も一緒に遊んで仲良くなることができたと思います。そのほかにも、みんなで食事をしたり、お風呂に入ったり、ミサにあずかったりなど一緒に行動しましたが、いつもそばに神様がおられるということを感じることができたら成功だったと思います。
 今回も教会学校の合宿に多くの方々のご協力をいただきました。本当にありがとうございました。

子供たちが祭壇を囲みミサが捧げられました 近くの川で水遊び、暑さも吹き飛びました

キャンプの思い出
                   石綿 日向子
 ふねにのったね。おもしろかったよ。あぶらはむのゲームがたのしかったよ。またきたいです。またきたいです。またー☆ きーます!  さようなら。

                   石綿 凌
 1.川で魚をみたのがよかった。2.工作でカブトムシを作ったのがよかった。3.トランプのしんけいすいじゃくが楽しかった。4.朝の食じがおいしかった。5.お友だちと、はじめて入ったのがよかった。6.アブラハムにはすごく楽しかった。7.みんなとはなびをやったのが楽しかった。

                   小俣 真菜
 楽しかったことは、工作の時間にブランコを作ったことです。あと、川にはいりました。冷たかったです。石も拾いました。遊らんせんにものって、遊らんせんの名前は、くじら丸といいます。ゲームで楽しかったことは、カードゲームです。おもしろかったゲームは“アブラハムと七人の子”です。夜は、まくらなげをして楽しかったです。また来たいです。

                   川久保 亮
 1.みんなといっしょにトランプで遊んだ。 2.工ぼうでオカリナを作った。3.食事がおいしかった。てづかくんの玉子をもらった。4.川で魚をつかまえようと思ったけど、つかまえられなかった。5.みんなでテーブルを囲んでミサをして、最後にあく手をして楽しかった。

                   河野 光ひろ
 工作でオカリナをつくりました。さいしょはむずかしかったけど、だんだんかんたんになってきました。友だちとおふろにはいって、けしきもよかった。おふろのなかがきれいで、おふろがひろかったです。はなびをしました。たのしかったです。そのとき、かぶと虫がとんできました。はなびがきれいでした。

                   つかもと さとし
 川で魚をみたのがよかった。工ぼうでサンドブラストをつくったのが楽しかった。しょくじがおいしかった。友だちと、ふろにはいった。「アブラハムには7人の子」をやった。バトミントンをやってたのしかった。

                   手塚 薫
1.友達と遊んだこと。2.オカリナをサメに見たてて絵を書いた時、思ったよりうまくできたので良かった。3.玉子料理が食べられないのに多くて困ったが交かんしてくれて良かった。4.川へ魚をとりに行った(けっきょくとれなかった)。トランプをした(ババぬきで1位に何度もなった)。5.ハンカチ落としや、他にもいろいろやった。サッカーや大なわをした。

                   手づか ひとみ
7/27 教会に集合した。車でゆうらん船のりばに行った。少しまって船が来たのでのった。シスターが近くにいた。ひなんの時の服が入ったはこのいすにすわった。湖ががよく見えた。着いたのは早かった。くじら丸にのっていたので、「くじら丸」と書いてあった。写真もはってあった。7/28 工作の時間にまなちゃんと森の落とし物をやった。木やタネですべり台やいすを作った。楽しかった。7/29 ふじのげいじゅつの家を今でるところだった。楽しかったのでまたきたいです。

                    宿里 春奈
7/27 遊覧船に乗って湖を回った。とても、良いながめだった。船がくじら丸という船だったので、ときどき上の方から水がでてきたから、びっくりした。7/28 工作の時間に、オカリナに色をぬった。思ったより、時間がかかったけどとても楽しかった。


   “信仰と光”サマーキャンプに参加して
                                      
                                    石塚 時雄
 7月23日から裾野市で行われた2泊3日の“信仰と光”サマーキャンプに参加してまいりました。関東で“信仰と光”共同体のある多摩、所沢、浅草各教会などから約35名の者が、このはじめての合同キャンプに集まりました。富士の裾野の大自然の中にある「聖心会裾野山の家」にて、知的ハンディを持つ方達と一緒に、2泊3日間、一緒に祈りをささげ、塩田希神父司式によるミサに預かり、福音の朗読箇所(ベタニアでの食事…高価な香油を塗る)を全員で「劇(パントマイム)」をやり、また夜は野外バーベキューをやりました。実に楽しく中身の充実した時間を過ごしました。
 私はいつも“信仰と光”集会に参加していて、“障害を待った人の持つ心の豊かさ”を感じます。知的ハンディの方のもつ簡易で素朴で純粋な何かが、集まったみんなに、それぞれのこころに持つ“よいもの”を出させる作用をするのです。私にとり特に印象深かったことは、浅草教会“信仰と光”共同体のコアメンバー(知的ハンディの方)の一老人〔飯塚吉生さん〕が昨年亡くなられ、全国から多数の方が葬儀にかけつけ、彼の死を悼んだことです。彼の死で分かったことですが、浅草教会は飯塚さんによってコミュニティ全体が(彼の本物の貧しさによって)イエスさまのもとへと招かれて行きました。(私はこの3月まで浅草教会に所属していました)
 この「この本物の貧しさ」とは、イエスの言う『貧しい人は幸い』そのものだと思います。またパウロが書簡の中でたびたび言う「弱さ」とも同一だと私は思います。私がいつも“どういうことだろう?”と不審に思っていた『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』とか『大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう』とパウロが語る意味が、飯塚さんを思い描き、また“信仰と光”集会に参加していると自然と納得できるのです。以上、サマーキャンプにて私が感じたことを記しました。


   2004 マリアポリに行ってから
                                   車 貞ミン(ドロテア)
 2004マリアポリに行って、
 「私は、神様を愛するって言いながら、人々を憎んでいた。偉い者に対して弱い姿勢をとる人や、弱い者を無視する人を・・・。
 私は、信仰心が深いと自慢しながら、自分の分(物質・時間・情報等の)だけしっかり持って、神様に捧げることも、欲しがっている人に分けてあげることもできなかった。
 私は、世界の平和を云々しながら、近くにいる人々の心には鈍感であった。
 私は、幼い時から教会に通っているって言いながら、お祈りを忘れていた。」
と、悟りました。
 到着した最初の日、会場に「目に見える兄弟を愛せない人は、目に見えない神様を愛することはできない」と書いてあるのを見た瞬間、日頃の私の姿を神様に見られていると感じました。しかし、神様が私たちに教えて下った「愛の分かち合い」を実践できず、「自分だけを優先する愛」に陥っている自分を見つけたのは、全日程が終わる頃でした。
 実は、何人かが話しする体験談を聞くときも、キアラ・ルービックのビデオを見るときも、夜の「分かち合い」の討論のときも私の心は、批判的でした。誰かが体験談を語るときは、“どうして自分の話をしないで、他人の例をあげるのか、やはり日本人は本音を言わない。他人の体験談は伝わって来ない”と、キアラ・ルービックのビデオを見るときは、“いくら偉大な人であれ、特定の人に対する宣伝ではないのかな”と、夜の「分かち合い」で、ほとんどの人が子供との関わりのみを話題にした時は、つまらないと思いました。
 しかし、そのような歪んだ心は、3泊4日の日程が終わる頃、自分が持っていた「愛」がどれだけ小さいものであったか、自分の信仰がどれだけ「傲慢」であったかを知ることができました。なにが、私の心を変化させたのかについて考えてみました。それは、3泊4日の間に出会ったすべての人々から感じられる「愛」でした。2004マリアポリに参加した、私以外のすべての人々は「先に愛する」というフォコラーレの基本精神を日頃から実践していたことが分かりました。したがって、彼らが何気なく語る言葉や表情・行動は、自然に、大きな愛として、私に感動を呼び起こしたのです。きっと、彼らは、傲慢な信仰を持つ私・小さな愛しか持ってない私の中にいらっしゃる神様を愛したのでしょう。
 今私は、夫と意見が食い違い、けんかになりそうになると、彼の中にいらっしゃる神様を見つけようとします。子供がごミサの間に外で遊んでいると、彼の中にいらっしゃる神様に向かって戻って来るように諭します。今私は、以前なら避けていた人々や私の心を傷つける人々に会うことが楽しみです。彼らの中にいらっしゃる神様を信じるからです。

*「マリア・ポリ」とは<マリアの街>の意。キアラ・ルービックを創始者とする国際的なカトリック運動である「フォコラーレ」が毎年夏に、各国で開催する2泊3日のキャンプの名称です。


 サレジオ6教会壮年会へ参加して
                                
                                    松原 睦
 7月18日(日)、午後調布教会において「サレジオ6教会壮年会」があり、参加しました。サレジオ会三河島・下井草・碑文谷・調布・足立・鷺沼の各教会の壮年会約80名と、府中教会・多摩教会から各1名の集いでした。
 聖堂で、プッポ管区長様の挨拶、小坂神父様の「日常生活の聖性」と題する有益な講話、聖体賛美式が行われ、続いて外の林の中に設置された懇親会がありました。皆さんはそれぞれ立食で懇談され、緑の木々の間を抜ける涼風に調布教会の立地条件のすばらしさをうらやましく思い、なごやかな運営の心配りも嬉しく感じました。初めて参加して顔なじみの少ない私に、数人の方が積極的にお話に来られ、多摩教会の事、合同ミサの事、サレジオ会のこと話題に事欠かぬ楽しい懇談が出来ました。
 そして、以前調布教会のヨゼフ会の勉強会へ参加させていただいた時にも感じたことですが、この集会の中でも70才前半の私など若い方に入ります。もっとご年配の方が遠くからも集まって、一つのテーマのもとにさらに自分を高める努力をし、お元気に話し合っておられるのです。多摩教会に若い人たちが積極的に活動を始めるようになった現在、壮年(年令には幅があります)男性を中心とした、こうした壮年会(またはヨゼフ会)があって、年令に関わらず、体力・知力に応じた、勉強と話し合いと活動の場ができないものかと思って帰りました。

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