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2004年4月号No.368  2004.4.17

季節のなかで 加藤 豊神父
岡田大司教様 受難ミサでのお話  
洗礼を授かりました 武田 恵子
中高生親睦合宿に参加して 宿里 広太郎
多摩教会中高生会親睦合宿に参加して 塚本 博幸
感想 川原 星悟

   季節のなかで
                            加藤 豊神父 

 もう20年以上も前の話になりますが、確か「季節のなかで」というタイトルの大ヒット曲がありました。TVコマーシャルから火がついた曲です.当時はCMソング全盛期でした。それらはレコード会社と広告ディレクターと実力派アーティストとの協力作業で誕生した時代のメロディーであり、実生活のサウンドトラックとなり得ていました。あの頃まだ、音楽はただ消費されるだけの使い捨て商品ではなく、また、単に楽しむ為だけの刺激物でもなく、聴く人を励ましたり、勇気づけたりしてくれる福音的なものだったような気が(わたしには)しています。「季節のなかで」は、松山千春さんの作詞作曲、歌、ギターで繰り広げられる叙情派フォークの真骨頂のような曲でした。「人生は旅のようなもの」というのが千春さんのモットーだったのでありましょう。
「巡る季節のなかで、あなたは何を見つけるだろう?」そんな歌詞でした。
 ところで人生を「旅」に喩えるというのは、それこそカトリック教会の十八番(おはこ)でありまして、しかも教会の暦には様々な季節があります。わたしたちは今「復活節」という季節のなかにいて、そのなかを旅しており、日々、何かを見つけようとしています。多摩教会はかつて「旅する教会」と評されたことがありました。家庭集会にはじまり、マンション時代を経て今があります。
 そのわたしたち共同体の旅はまだ続きます。今わたしたちが過ごしているこの「復活節」も5月30日の「聖霊降臨祭」をもって終了し、暦は再び「年間」に戻ります。その「年間」もまた11月21日「王であるキリスト」で主日が終了。その次の週からはクリスマスを準備する「待降節」という季節になります。クリスマスからは「降誕節」で、来年1月9日の「主の洗礼」からまた「年間」。そしてまた「灰の水曜日」がやって来てまた「四旬節」と巡って行きます。
 いうまでもなく、それぞれの季節が固有の意味を含んでおり。それは無機質かつ機械論的に循環する無常な周期なのではありません。「四旬節」にも「復活節」にも「待降節」にも「降誕節」にも、そしてもちろん「年間」にも中身があって、そのなかを歩むわたしたちには旅の目的がある、といえます。巡る季節のなかを旅する教会がそこに見いだそうとしているもの、それはやはり「復活者キリストとの出会い」ではないでしょうか? 空虚と惰性と無味乾燥から癒されるために、今年も共に種々のかたちで復活者キリストとの出会いを重ねてまいりましょう。


   岡田大司教様 受難ミサでのお話
                        (4月4日受難のミサ説教より)

 今日は受難の主日で、今私達はルカによる福音書を朗読しました。朗読の最後の所で、百人隊長の言葉に、「本当にこの人は正しい人だった。」とあります。百人隊長は、イエスが十字架に付けられて息を引き取られる様子を、すぐ側でつぶさに見ていました。
 もし私達がその場に居合わせていたら、どんな気持ちを持ったでしょうか。今私達はその場面をここで再現しています。実はいま、世界中で「パッション」という映画が評判になっています。日本ではこの間試写会があり、私も見に行きました。間もなく公開されることでしょう。イエスの受難の様子を非常に忠実に描いたものです。こういうような場面であったろうと、真に迫った描写になっています。また余りにも衝撃的なので泣き出した人もいるようですし、子供には刺激が強すぎて注意した方がいいような話もありました。先日、マニラの大司教様が四旬節の教書の中で「是非皆さんも見てください。よい受難の黙想になります。でも子供たちには余りにもショッキングな場面が多いので親は注意した方がいい。」との主旨を言っておられました。
 私達は勿論、皆様もイエスの受難を聞いていますが、私は今まで漠然と思い、想像していたことが余りにも真に迫った場面だったので、改めて受難、十字架というものを、こうだったのかと思っています。皆様も機会があったらご覧になって下さい。今日読んだ個所は、この映画では忠実に表現されています。イエスを取り巻く多くの人の思いが露に示されています。人間がここまで残酷になれるのか、これでもかこれでもかという具合に出ている。それに対して、この理不尽な暴力に直面したイエスが、それをどのように受け入れ、そしてどのように奉げたか。それは本当に大変なことだったという風に思います。人間の価値というのはどういう時に表われるでしょうか。人はどのようにして自分の最期を迎えるのか、そして人の生涯の意味はその最後の所で締めくくられると思います。イエスの最後は十字架でありました。
 私達はいろいろ困難な体験をしました。人間の生活はいろいろな問題の連続であります。ストレスの多い私達の生活であります。健康で元気でいて、そして自分の生活・仕事もうまくいく時は他の人に対しても穏やかで親切に、そして思いやりを持つことが非常に易しい。本来人間は人に対して、良くしてあげたいし親切にしてあげることがそれ程難しくない。しかし自分自身の上に大きな問題が、或いはストレスが掛かっている時、周りの人がよく解ってくれない時、何かうまくいかない時、それどころかいろんな理不尽ないじめとか攻撃があった時、私達に普段の自分であることができない。平静さを失う、イライラする、そして自分の人間としての落ち着きとか或いは品性・感性というものを失ってしまう。私も自分で何度も経験しますが、非常に疲れているとき、大きな困難に直面した時に落ち着いていること、人のやることする事を良く聞きそしてキチンと応えることが非常に難しくなります。イエス受難の場面の中で、イエスは自分を迫害するものの罪を許し、その人のために祈っています。そして自分を罵っている人に対して罵り返したり、或いは反発したりしていない。変わらぬ静けさを持ち続け、そして最後に「父よ私の命をあなたの御手に委ねます。」と言って息を引き取られます。
 これは人間にできることではない。だからこの場面を見た百人隊長は「本当にこの人は正しい人だった。」と、本当にそう思ったのです。人間の本当の価値は困難・逆境の中にあるとき、初めて発揮するのだなと思いました。そいうことを思うと私など自分で何かあるとイライラしてしまう、何かストレスの解消を求めて本当にその間題に立ち向かうよりも、まずそれを回避し逃避してそして本当の事実に目を背けてしまう自分を見つけます。ですから私達がキリスト者になったのはこのようなイエス・キリストの生き方を、私達が少しは見習おうと決心したはずなのです。それがなかなか出来ていないことに気が付きました。
 イエスを十字架に付けた人たち、それは民衆達でありました。「十字架に付けろ!」と叫びピラトはついに自分の保身のため、自分の安全のために譲歩してしまった。この群集・民衆はイエスを歓呼の声を持って「ホザンナ!」といってエルサレムで受け入れた人たちであったのです。このように全く無責任な人たち、その人たちの煽動によってすぐに心を変えてしまう人たち、これが私達自身でもあります。私達は今日受難の主日にあたって、私もこの群集の1人であることをもう一度思い、そして十字架に付けたのは実は私たちだったのだ、ということを本当にしみじみ思うべきではないかとそのように思います。             (文責 岩藤)


 洗礼を授かりました
                                武田 恵子
 2004年4月11日母は洗礼をうけました。
平成13年11月28日両親は私達の住む多摩市に引っ越して参りました。80歳の父と2歳下の母が、住み慣れた北海道をはなれ、東京に来るには、大きな決心が必要としたでしょう。18年前には母は難病になり、10年前には父も大病を患い、それでも二人で暮らせるうちは、二人が良いからと言って居りましたが、雪かき、雪降ろし、雪の中の買い物、父の看病と難病をかかえた母には無理な日々をすごして居りました。それでも私達がすすめて、同居するまでには、2〜3年はかかりました。
 私が帰郷する度に教会に行きますと、時には母もついて来る事がありましたが、その頃の母は教会とはどんな所でしょうという興味津津の気持ち以上のものは無かったと思います。東京に来て、また時々は一緒に教会へ通う事になり、皆様の暖かい歓迎に母はとても嬉しかったと申しております。友達も兄弟も全て別れての上京ですから母は淋しくてどうにかなるのではないか、と心配したものです。
 こちらの生活にも少し慣れた頃、「信者になりたい。それにはまず神様の事をすべて知りたい。」と申します。「どなたか聖書を一緒にお勉強して下さい。」と声をかけ、今回代母となって下さいました萩原スミ子さんがお忙しい中、カリタス会の谷口院長様と約1年我家に通って下さいました。
 初めの頃は仏教とのこだわりもあり、仏様は今まで守っていただいたので、どうしたら良いかと迷っておりましたが、院長様は「ご一緒に祀ってもかまいませんよ。」と言って下さいましたので、母はほっとしておりました。仏壇に仏様とマリア様が同居する格好でしたが、洗礼を受ける3日前には自分で手筈を整えてお寺を探し、大切な仏様をお返しになりました。
 母の行動力には驚くばかりです。心からすべてイエス・キリストを信じて行く強い決心を感じました。私がした事と言えば、同居した事と時には運転手をした事です。あとは教会の人々の祈りと助けと神様のお恵みがいっぱいと言う事に尽きます。まだ本当の信仰生括にはこれからと思いますので、どうぞ皆様宜しくお願いいたします。
                                 感謝のうちに。
        

  中高生親睦合宿に参加して
                                   
                           リーダー 宿里広太郎
 「あの子達も、泊まりがけでどこかに行けたら楽しいのかな?」寝る前に妻がぼそっと言った、この言葉がきっかけとなって中高生の親睦合宿をやろうと思い立ちました。
 私や妻が中学生や高校生当時の多摩教会には、とても教会学校活動が盛んで、年に何回かは必ず泊まりがけでの、キャンプやクリスマス会、他の教会も交えて行う農作業など、教会学校活動を通して新しい友達ができたり、友達の今まで知らなかった一面を知ることができたり、本当に今振り返っても心から楽しく貴重な体験をさせていただいたと思っています。
 ふとしたことから、ギターを教える事になり、中学生達と共に過ごす時間がとても楽しく感じるようになって来ていた私は、あの時の楽しさのほんの一部分でも、今の中高生に味わってもらいたい、教会の仲間が素晴らしいって事を改めて分かってもらいたい、また、私自身が中高生のみんなと出かけたいという、強い気持ちに突き動かされ、どうにかこの中高生親睦合宿を実行することができ、無事に帰って来ることができました。
 合宿自体は、一共に遊び、共に食べ、共に勉強し、共にミサを捧げ、怒ったり、笑ったり、歌ったり、ギターを弾いたり、雨に降られたり、夜全然寝なかったりと、それはそれは、私が思っていたようには進まない嵐のような合宿でしたが、みんなのことを以前より知ることができ、自分自身についても新たな発見があり、そして神様についてもほんの少しは知ることができたような気がします。改めて考えると「友を知り、自分を知り、キリストを知ろう」この昔からあるテーマが根本にあるのだと感じました。
 合宿に参加して本当に良かった、とても楽しかった、私はそう思っています。参加してくれた中高生達も同じ気持ちでいてくれたら、私はそれだけで十分満足です。最後に、この合宿に協力していただいた皆様に心から感謝いたします。ありがとうございました。

  多摩教会中高生会親睦合宿に参加して
                                      
                                塚本 博幸
 僕はこれに参加して、中高生の親睦が深められたと思う。いつもはなかなか集まることのできない中高生がこの機会を通して、二泊三日同じ釜のめしを食った仲間のようにつきあえて、本当に良かった。
 さらに、石切山君も参加(田園調布教会から)してくれて、他の教会とも一応交流出来た。これを機に、中高生会の活動をもっと活発にし、元気があるものとしたい。
 *P.S.中高生会の人は、日曜日のミサ10分前に来て、毎週交代しながら侍者をして下さい。


       感想
                                      
                                川原 星悟
 三月中の中高生合宿にはリーダーとして参加させていただきましたが、どちらかというと中高生よりだったような気がします。直前まで実家の方に帰省していて、中高生達や他のリーダーの方々に心配と迷惑をかけていました。そんなことで自分も不安だったのですがすぐに皆と打ち解けることができ楽しく過ごすことができました。今回の合宿で中高生と接したことでまた新たなことを学ぶことができました。貴重な体験ができ中高生と他のリーダーの方々に大変感謝します。

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