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2003年10月号 No.362  2003.10.18

神無月 加藤 豊神父
9月14日シニアの集いが開かれました  
ニュージーランドの旅 海野 滋子
多摩教会の日本語教室を懐かしむ 佐倉 リン子


              神無月
                        主任司祭 加藤 豊神父

昔の人は自然界の森羅万象を神々の営みとして捕らえ、大自然を前に、謙虚な姿勢でそれを畏れ敬いつつ生きていました。今やあらゆる自然現象も先ずは科学的な認識の対象となってしまい、そのようにして神々を残忍に葬り去った現代人は、自らの生命観をも益々危ういものにしています。命に対して畏敬の念を抱くよりは、それをコントロールしようとして(クローン人間の研究など)躍起になっている人たちが沢山います。
 江戸末期の思想家で国学者の本居宣長(1730〜1801)は、わたしたちの日常の根底に隠された「惟神(かんながら)の道(理)」について述べた人でした。聖書にも「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を示す」(詩19:2)といった表現で神の御業への賛美が謡われていますが、こうしたセンスは聖書を書いた人たちよりもむしろ日本人のほうが鋭いのではないかと思います。人のさかしらな知恵をもって万物の理法に挑むのではなく、かえって知恵の放棄によって姿無き主宰者を洞察せんとする直感的思惟は、古来、わざわざ曖昧な言い回しで大事を扱ってきた日本語会話の特徴と不可分でありましよう。
 今もなお10月を陰暦表記で「神無月」と記した暦があります。この場合の「神無」とは「神々が留守である」ことを意味しており、ちょうどこの時季(この月)、日本各地の大小神祇が出雲の国(現在の島根県)へとこぞって集まる、という伝説に由来しています。
 秋が深まり、蝉の声は消え、山川草木の旺盛(神々の躍動感)は今どこへ?それは出雲へ。といったところなのでしよう。詩人ヘルダーリンの言葉を借りるなら、まさに「飛び去りし神々の聖なる痕跡」をかいま見る月、それが日本の「神無月」です。
 ところが今日、地球規模での「神無月」が到来したのをよいことに、人類の大半は「飛び去りし神々の聖なる痕跡」を土足で荒らし、命の与え主なる天の父を忘れ、みずからを唯一絶対の尺度とする時代の開幕に喝采しました。そのような状況下、キリスト教会(カトリックであれ、プロテスタントであれ)は、いわばイエスの足跡を現代世界に伝えるグループ、「飛び去りし神々の聖なる痕跡」を告げる機関であるにも関わらず、(世界規模で見るなら)常に他宗教との争いを繰り返すキリスト教原理主義者たちを内包しています(環境破壊や人種差別がキリスト教文化圏の人たちによって引き起こされた現実は否めません)。人間が本来の自己(清き明き心、あるいは「神の似姿」性)を取り戻すことができるよう、今キリスト教会の最優先課題は、絶えざる自己確認ではなかろうか、と思う今年の「神無月」です。


9月14日シニアの集いが開かれました
当日は40名を越えるメンバーが参加されました。
お弁当をいただきながら、お話しや歌で大いに盛り上がりました。
シニアのメンバーのエネルギーに乾杯。

   ニュージーランドの旅
                           
                           海野 滋子
 夜、成田をたち眠りのうちに赤道を越え、目覚めと共にシドニーに着く、国内線に乗り換え二時間半でもうニュージーランドである。
北島 南島と分かれていて、私共、寺西神父様を団長とした巡礼旅行団一行は南島の最大都市クライストチャーチに第一歩を踏み入れた。どの案内書を見ても、「街のシンボルである大聖堂は中央に聳え」とある。ゴシック様式の荘厳な建物である。これはカテドラル・アングリカ・チャーチである(聖公会)他宗教なればこそ、中に入ってその景観に接してこなかった事を今になって悔やむ。
 カトリック教会も、偉容を誇る大聖堂であった、巡礼団最初のミサが脇祭壇で挙げられ、旅行中の神の加護を願ったのである。静寂が保たれ、世話人の親切な態度が身に泌みた。(キリストの死と復活)が現代風にアレンジされた彫塑の額が、祭壇の唯一の飾りであり、その重厚にして清楚な感じに、先ず心打たれたのである。
 私共は十日間この島を回ったのであるが、到る所に教会があった。聖公会、カトリック、メソジスト等、異宗教の二つの教会が隣り合って建っている所さえある。即ちこの国に人は宗教を持つは当然、信仰を持たぬなど考えもつかないのであろう。常に神と共にあると、生活しているのである。神の与えたもうた自然美は変わることなく、治安にも何の案ずる事はない。
 小さな街の教会でミサの予定があった、司祭の常駐はない、世話人が丁重に迎えてくれた、生花は美しく飾られ、その上信者の方が十人も集まって私たちを迎え一緒にミサに与ったのである。
 「主の平和」の挨拶の時、神父様は祭壇を降り皆さんと握手され、私どもも新しい友に近づき手を取り合った、太ったおじさんの、ぶ厚い手は暖かかった。
 又、別の教会でミサの時、私の席の後ろで日本人の女の方が一人敬虔な態度でミサ に与っておられる、聖歌集を渡し御一緒に歌いましょうと声をかけた、御主人の転勤でこの地に住み日本人は私たちだけ、懐かしいとの事、教会報を見て跳んで来たと言われる、光塩高女卒だそうで、高円寺教会の方と話がはずみ、別れを惜しんでおられた。
 又、旅の最後、オークランドの教会でのミサの時の事。隣の席に赤ちゃんを抱いた若夫婦が来られ、聖歌集を御一緒にと見せたところ、妻は日本人で、懐かしそうに側に来て、口ずさみながら、目をうるませていた。異国人と結婚し父親そっくりのベビーを育てている彼女!「日本人が来ると教会報にあったので只懐かしくて」と言われた。同胞の若い妻、そして母なるこの人に幸を!と願ったのである。
 何処に行っても同じ信仰を持つ日本人に出会う、お互い祈り合う事のできる事が嬉
しい。
 この旅行中つくづく感じた事である。

 クライストチャーチの街の公園の桜は満開、椿、木蓮、石楠花、下草には水仙、クリスマスローズが咲き満ちて、日本の四季の花が一斉に咲きそろい春を讃えている。
 南の寒地では標高3千メートルの雪山が美しい山並みを創る。このすばらしい大自然を創りたもうた「神は偉大」と讃美する。
 生活はしやすい。羊、鹿、牛の肉、伊勢海老、牡蠣は美味、野菜、果物は新鮮、豊
富そして廉価。
 親しい夫婦が彼の地へ終生の移住を決意したのも、宜なるかなと思う。
                                        03年 9月末


多摩教会の日本語教室(1980年代)を懐かしむ

                              佐倉 リン子
 毎年九月は、心ならずも異国に移動しなければならない人達の為に祈りと献金をする期間と言うことで、それに関連して私の中・高校時代の友人、ジェンマ小森謙子さんのことを書きたいと思う。
 大人になってから小森さんと私が接触した唯一の場所は、不思議なことにこの多摩教会だった。
 1980年代、ベトナムのボートピープルを多摩地区にに受け入れようと、多摩教会の有志が難民部(後に難民は差別用語だとの指摘があり定住援助部と称される)を作った。沢山のベトナム人がこの地区に済み始め、職と最低限の衣食住を提供すべく難民部の人達が奮闘されることとなった。同時に日本語教室が必要とわかり、信徒館を利用し、私の長女が教室を任された。生徒は小・中学生・青年・元軍人・元巡査・元教師など。そのためしっかりした先生が必要で、丁度高尾に住み始めた小森さんに話したところ、「将来日本語教師になろうと思っているから、」と早速引き受けてくださった。当時彼女は啓明学園の国語の先生で、日本文学に造詣が深かった。以来数年間、雨の日も風の日も休まず通ってくださり、生徒が全員無断欠席したこともあったが、嫌な顔ひとつせず授業を続けてくださった。
 現在この教会に美さ紀ちゃんと言う小さな娘を抱いて来るブイ・ユィ・ティ・キエット君は、その頃未だあどけない小学生だったが、キエット君のお父さんのオワンさんは、勉強にも仕事にも身が入らず、ゲームを持って来て授業の邪魔をするので、他の生徒や、小森さんが連れて来た啓明学園の若い先生を怒らせていた。が、小森先生は悠然としてオワンさんと差し向いでゲームをしていた。誰も気が付かなかったが、その時オワンさんは肺に水が溜まっており、或る日、真面目な生徒のクォンさんが医者に引張ってゆき、即、恵仁病院、そして聖マリアンナ病院へと入院した。「一日遅れたら死んでいたところだ、」と医者に言われた。
 当時クォンさんは3人の子供と一の宮のアパートに住み、川崎まで仕事に通っていた。「子供達の為に教会の傍に住んでいたい、」と頑張っていたが、疲れ果てていた。クォンさんが3人の子供とボートでベトナムを脱出して7年が経った時、本国の情勢が変り、奥さんのジャンさんが飛行機でやって来て一家に活気が出た。同時に他の父子家庭にもベトナムから残の家族がおいおいやって来て、日本語教室は一層賑やかになった。ジャンさんはベトナム料理の腕を活かしてアルバイトを始め、クォンさんも一生懸命働いたが、収入は市営アパートに入れる最低収入をも下まわるので、劣悪でしかも高い民間アパートに、その建物がこわされるまで住み、そのままアメリカに移住して行った。都立工業高校を卒業して東芝に就職した長男のトン君だけを残して。ロスアンジェルスでは頼りにしたクォンさんのお兄さんも自分の家族の面倒を見るのに手いっぱいで、やっと手に入れた車も壊されたりするなど・・・、クォンさんがどうしても日本に帰りたいと言い出し、夫婦で日本に帰って来た。
 間もなくクォンさん・ジャンさん夫婦が二子玉川でベトナム・レストランを開き順調にいっているとの話が伝わって来た。彼らに再会したのは、2001年12月高円寺教会での小森さんのお葬式の時だった。
 謙子さんの弟さんによると、故人は、多分二度目に修道院を出た後だと私は思うが、父君と二人で四国八十八ヶ所を巡礼して歩いた。
 それから啓明学園に勤め、定年後は日本語の先生をしていたが、合間にグァテマラの奥地に学校をたてる運動に加わり、二度現地に出かけ、リュックを背負って若い人達といっしょに山路を歩いたと言う。
 その日は、母屋にお住まいの姉上のご家族が鍵を開けて中に入った時、ガス台の上の薬缶が湯気を立て、朝食の用意が整っている傍で倒れていらした。以前から高血圧気味だったと言う。日本語を習いに来たフランス人の青年が、ベルを鳴らしても答えがないので母屋に知らせたらしい。グァテマラに二つ目の学校が建ったとの知らせが届いたのはその後だった。
 つい先日、波田野さんがジャンさんの店でベトナム料理を食べて来たこと、そしてジャンさんが「この店は小森さん(?)のものです。」と言ってたと報らせてくださった。小森さんが資金をだしたのだ、とその時はじめて気が付いた。惜しみなく与える人だったから。
 日本語教室には、多摩市の境を越えた広い地域の方々が応援協力してくださったことを振り返って憶う。調布にあるコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスター方が英語を教えてくださったり、また「ディズニー・ランドに連れて行ってあげて。」と費用をくださったりしたこともある。   神に讃美。  
                                   2003年10月8日

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