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2011年6月号 No.454  2011.6.18

塩釜ベース
晴佐久 昌英 神父
ボランティア、被災地で感じた 深江 豊
感動的な第2回チャリティー・コンサート 清水 信子
塩 釜 ベ ー ス

                                  主任司祭 晴佐久 昌英神父

 このたび、4日間ではありますが被災地を訪問してきました。塩釜教会のボランティアベースを中心に、七ヶ浜、石巻を回り、最後の日には米川ベースにも立ち寄って南三陸町の避難所を訪問しました。
 現場を車で走りながら思わず口をついて出てきたのは「行けども、行けども・・・」という呆然としたつぶやきです。ともかく延々と、行けども、行けども惨憺たる光景が続くさまは、文字通り「手のつけようがない」有様でした。
 しかし、だからこそ、そんな中で孤軍奮闘のように重機を動かす作業員や、今なお遺体を捜して側溝の泥の中に潜り込んでいく自衛隊員や、ただひたすらに瓦礫を片付け続けているボランティアたちの存在が、それこそ「地獄で仏にあったよう」に輝いて見えたのが、とても印象的でした。

 さて、被災地の現状とボランティアの意義については今号の深江氏の報告に詳しいのでそちらを読んでいただくとして、ここでは少しカトリック塩釜教会のことに触れておきたいと思います。
 塩釜湾は大小二百あまりの松島の島々が点在し、それが天然の防波堤となったため他の地区よりは少しだけ被害が少なかったようです。それでも津波は港から数百メートル内陸まで押し寄せましたが、ちょうどカトリック塩釜教会の手前のところで止まり、地震による損傷も軽微なものでした。あの激しい揺れでもお御堂のマリア像が台座から落ちなかった、というのが信者さんのご自慢で、「落ちないマリア様」として受験生の保護の聖母にしたいなどと、ユーモアたっぷりに案内してくれました。
 しかし、ご存知の通り塩釜教会はこのたび、大きな犠牲を払いました。主任司祭を亡くしたのです。アンドレ・ラシャペル神父は、地震発生時仙台市内にいましたが、皆の制止を振り切って車で教会に戻りました。しかし教会周囲の道は津波で冠水していて立ち往生し、一晩極寒の車中で過ごしたために持病の心臓病を悪化させて亡くなったとのことでした。敬愛する主任司祭を失った塩釜教会の信者さんたちの悲しみは察するに余りあります。落ちないマリア像の前に、神父様の大きな遺影が飾ってありました。

 そんな中、塩釜教会は、仙台サポートセンターのもとボランティアのベース(基地)となる教会に指定されて、教会をあげてベースを支えてきました。このたびそのベースの様子を見て、これは本当に信者さんたちの全面的な祈りと献身、犠牲なしには不可能だなと思い、頭が下がる思いでした。
 ミサ後は、お御堂のベンチは片付けられ、女子の寝室になります。信徒会館のホールは男子の寝室兼食堂。日中瓦礫と格闘してきたボランティアたちが毎日何十人と出入りすれば当然汚れます。ボランティアは皆が信者とは限りませんし、中には教会のことをあまり理解していない人もいるはずです。当然普段どおりの教会活動はできないでしょうし、時には苛立つ出来事もあるのではないでしょうか。
 そのような現実の中で、信者さんたちは毎日このベースを訪れて、だれであれ寛容に受け入れ、忍耐強く対応し、さまざまな工夫をしながらできる限りの奉仕をしているのでした。もちろん、直接的に運営しているのはカリタスジャパンであり、ベース長のブラザーや炊き出しに来ているシスターたちの献身的な奉仕あればこそのベースですが、そこでボランティアたちがさまざまなことを体験して成長し、時には福音に出会う姿を目の当りにするにつけ、そのベースを支える塩釜教会自体も尊い働きをしているなという実感を持ちました。まとめ役の主任司祭がいない中、信者たちが一致団結して話し合い、さまざまな配慮をしている様子は、まさに聖霊に導かれている教会の姿でした。
 今回わたしも塩釜教会の信者さんに受け入れられ、その細やかな配慮と案内で、ご自宅や病院におられる病気の信者さんたちの病床訪問をすることができましたが、教会の本質は何はともあれ「受容」であり、震災後の教会のあるべき方向性はそこにあることを、はっきりと見た気がしました。
 もしも教会が、自分たちの都合やら狭量な了見のために「もうベースはいいでしょう、そろそろお引取りください」などと言いだすとしたら、たとえ十字架は立てていても、もはやそれはキリストの教会とは呼べないでしょう。
 わたしたち多摩教会も、今後、さまざまな形でこの塩釜教会を応援していきたいと思います。それがベースを応援することとなり、それが被災地を支援することになるのですから。

ボランティア、被災地で感じた事
〜私たち一人一人が今、呼び求められています〜

                                        深江 豊

 
5月4日から16日までの12日間、そして5月26日から6月4日までの9日間、宮城県にある塩釜教会のベースでボランティア生活をさせて頂きました。ベースではブラザーとシスターがいて下さり、美味しい食事と寝床、また温かいシャワーもあびることも出来、とても快適な環境でボランティアに専念することが出来ました。
 毎日、全国から数人の方が来てくださり、数日間のボランティア活動を終えて帰って行かれます。 本当に多くの方との出会いと別れを経験し、1日1日の分かち合い中で沢山の感動を頂きました。
 被災地の状況は少しずつ良くはなっていますが、呆然と立ち尽くすしかない深刻な光景が依然として広がっています。 被災地の誰もが疲れきっていて、誰もが多くを奪われた悲しみに耐えていられます。 互いに励まし合い、「私よりももっと多くを失った人がいる」と仰り、誰もが隣人として支え合いながら生活されています。   
 そして、あの地震の日の記憶を乗り越えようと私たちに話して下さいます。激しい揺れの後、津波により浸水し停電で深い暗闇と静けさの中、凍える雪に包まれ絶望と不安に囚われたあの夜のことを。最愛の家族を失い大切な思い出や守りたかった大事な物をすべて奪われたあの日のことを。どんなに、どんなに辛く悲しく苦しかったことか。
 ボランティアに来られる方々は皆、「被災された方のために1日も早く平安な暮らしを取り戻すことができるように」と、思いを一つにして多くの悲しみと困難と向き合い、力を合わせ頑張っています。
 塩釜ベースはカリタス・ジャパンのご支援を通し、東北のことを思う沢山の方々の支えによって、また何よりも塩釜教会の信徒の皆様のお力添えにより、今も活動を続けられています。メディアでは、「もうボランティアはいらない」と報道されています。ですが、まだまだどうすることも出来ない困難の中に取り残された方が沢山おられるのです。 塩釜市の七ヶ浜と桂島や野乃島などの離島は、その被害はあまり知られておらず、ほとんど報道もされていません。他の町にはある重機も数が足りず、見放された町として今も多くがあの日のままとなっています。
 多くの方が、ボランティアの存在、その意味も知らずに今も生活されています。 例えば、ボランティアが無償であることや連絡方法など、ボランティアを利用していいのか判らず途方に暮れているのです。嘘のような話ですが、ボランティアが認知されていないのです。 ベースを取りまとめて下さっているサレジオ会のブラザー深川は車で被災地をまわり、道行く人や個人宅を訪問されて「何か少しでも力になれないか」と声かけをし、私たちと被災された方々との架け橋となっています。
 ボランティア活動の中で、仮設住宅の入居者のための引っ越しのお手伝いもさせて頂きました。避難所からは荷物は少なく、ほとんどがお部屋への支援物資の搬入でした。 決して十分とは言えない室内でも、避難所から解放されて新たな生活を始めることの喜び、そのお手伝いが少しでも出来たのなら私たちは幸いです。
 しかし、全国から届けられた支援物資の多くが、衣類などのサイズは分別されておらず、様々なものが入り交じっている状態でした。 仕分けできる人手が全く足りず、今はお金や支援物資よりも人手が何よりも必要とされていると感じました。
 福岡からボランティアに参加された看護師のお二人が地元の病院で折られた折り鶴を、ボランティアの仲間と共に入江に流し、犠牲になった方のご冥福を祈りました。一日も早く平安が取り戻され、被災地と共に亡くなられた方もまた復活されますように。憐れみ深い神様どうか私たちに力をお与えください。悲しみと絶望の暗闇を照らす喜びと希望の光となることが出来ますように。 
 私たち一人一人が今、呼び求められています。被災された方のために犠牲を捧げ、あらゆる角度から光を照らし、歩み寄り、主の愛と希望を届けなければならないと感じます。
 一緒にボランティアをさせて頂いた方の中には、ご高齢の方もおられました。74才の女性と73才の男性、70代のご夫婦の4名です。ベースではシルバー隊と命名され、若い方とも楽しく本当に一生懸命に頑張っていらっしゃいました。3日間という短い期間でしたが、野乃島という今なお被災の爪跡が残るすごく危険な場所で一緒に作業にあたりました。
 何よりも心に残った出来事は、シルバー隊の活動期間の最終日にありました。出発前、疲れている73才の男性の背中を74才の女性がマッサージしている時、男性が何気なく始めた話です。男性は50代の頃に心不全を患い、5年前にも癌で内臓の一部を切除していて、今も胸にペースメーカーが入っているとのことでした。
 私は突然の告白に驚き、それはすぐに溢れでる涙に変わりました。一緒に活動した3日間はどれも軽作業とは呼べるものではなく、私でも言葉にならない程に辛く感じました。その中で、ご高齢の体をおして捧げてくださった犠牲が本当に命懸けだったことを知り、その尊さに感動の涙は溢れたのです。これほどに尊いボランティアが他にあるでしょうか。命知らずと責めると人もいるかもしれません。でも、男性の「こんな私でも誰かの力になりたかった」と言いながら、笑顔で見つめてくださった力強い眼差しを、私は忘れません。最後に別れるとき「また来たい、私達の犠牲の意味を、蒔かれた種の実りをまた皆で分かち合い。もっと良くなった塩釜でまた皆に会いたい」と話しあい握手を交わしました。 その時、それぞれの場所に帰り、遠く離れていても、必ず気持ちは一つになれるのだと確信しました。何度でも彼の地へ戻り、私の出来るすべてをお捧げしたいと思いました。 神なる主の平和の道具として、私もまた生かされますように。
「自分の無力さに生きている意味を見失いながらも、自分には何か出来る事がある、 何か使命のようなものがあるはずと信じて、私たちの力を必要としてくれる方のために“笑顔”その希望の光を届けたい。」
 私たちボランティア一人一人で出来ることには限界があります。しかし、そこで嘆き、ただ傍観するしかないのでしょうか。私たち一人一人に力はなくとも、悲しみに苦しみの内にある人に寄り添うことは出来るはずです。ボランティアを支えるボランティアも何かあるはずです。
 復興の道のりはまだまだ遠く険しいです。疲れ傷つき、倒れそうになっているボランティア、その方の代わりに少しだけでもその十字架を背負い歩むこと。それは復活へと至る希望を繋ぐ愛のリレーなのだと思います。途絶えることなく続く、儚く尊いその行いが、私たちには求められているのだと思います。
「絶対にこの苦しみは、このままでは終わらない。必ず新たな命への、私たちの新たな喜びへの出発点になるはずだ。」
 互いに隣人となり、手を取り合い立ちがり、行く。今こそがその時なのだと感じます。 それは被災された方だけの出発点ではない、私たちにとってもまた出発点なのだと。
 これを読んでくださったあなたもまた、もう気付いてくださったはずです。どうか、その愛の力をお貸しください。
 主の平和のうちに。神に感謝!

感動的な第2回チャリティ・コンサート!

                                        清水 信子

 先日の第2回震災チャリティーコンサートに第1回に続き参加いたしました。クラシックからジャズ、ミュージカルまでコンサート会場にご一緒している友人御夫婦をお誘いし教会の席で開演を待ちました。
 最初の音が響いた瞬間から心に染渡り、教会音楽をカトリック多摩教会で聴いている事、響き渡るピアノ歌声に今まで感じた事の無いような震える程の感動を覚えました。オペラ各曲の優しく力強い歌声は被災地にまで響き届く様でした。惜しみない拍手を送りたいと思います。
 快く一緒に写真を撮って下さったピアニストの佐藤さんありがとうございます。コンサートが終わり一日を終えるまで夢の中にいる様でした。贅沢なひとときをありがとうございました。被災地に音楽の息吹が届きます様に!


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第13回
                 《1メートル四方のオアシス》

                                                                 小野原 祐三

 あれは確か、今から7年ほど前の初夏のある日。受洗して1年ほど経っていたが、私は、まだ「赦しの秘跡」に与っていなかった。当時の所属教会は、聖イグナチオ教会。大聖堂では、2カ所で告解が行われていた。
入口左の告解室。すでに10数名の信者が、椅子に座って待っていた。私は、列の最後尾についた。もうひとつの告解室の前にはだれも並んでいなかった。聖堂案内係の女性が、「あちらの告解室にも神父様がいらっしゃいます。どうぞ」と、もうひとつの告解室の方を指さすが、誰一人動こうとはしない。その女性はあきらめずに、何度もやってきた。
入門講座で指導を受けたイエズス会の神父様から、「赦しの秘跡」の素晴らしさ、大切さを何度も伺っていたが、1年以上、どうしても、告解に与る勇気がでてこなかった。
 1時間ほど経って、ようやく私の番がやってきた。緊張しながら、告解室の扉を開ける。部屋は1メートル四方くらいの広さ。神父様の小部屋との間は、壁で仕切られ、小さな格子窓がある。映画で見た告解室と似ている。格子戸が開くと、そこには、目をつぶった優しい表情の80歳くらいの外国人神父様。前屈みの姿勢で椅子に座っている。神父様の部屋も、1メートル四方あまり。いつもは、背筋をピンと伸ばし、教会の中を颯爽と歩いていらっしゃる長身のミゲル・メンディサバル神父様。
 ただ、この時はいつもの神父様とは様子が違った。目を閉じて俯き加減の神父様のお顔。そのお顔の周りが、金色に輝いていたのだ。私は、茫然とした。「本当だったんだ。」日系ペルー人のいとこから、告解室のメンディサバル神父様の頭の上には、「金色の輪が見えるんだ」と何度も聞いていた。その度に「何を、ばかなことを」と私は、まったく、取り合わなかった。
しかし、私の誕生日は、「自分のこの目でみないと信じない」といわれる聖トマスの記念日と同じ7月3日。この不思議な光景を自分の目で確かに見たのだから、信じないわけにはいかなかった。
本当にこんなことがあるんだ。神父様の「はーい」という優しい呼びかけで、われに返った。友人から、「初めての告解」について、アドバイスを受けていた。「洗礼を受けたのは1年前。今日が、初めての告解です」と、教わった通り、ゆっくり言うと、神父様はまた、「はーい、はーい」と優しくおっしゃり、罪の告白を促した。
 私の罪の告白にじっと耳を傾けていた神父様は、優しい言葉をかけてくださり、そして、「あなたの罪を赦します。『めでたし』(天使祝詞)を○○回祈ってください」と静かにおっしゃった。光り輝く神父様のお顔は、天使のようであった。告解室を出ると、自然に涙があふれてきた。「これが、赦しの秘跡なんだ。」
それから、7年。メンディサバル神父様は、今年の2月21日、帰天された。享年90歳。翌日のお通夜には、日本で20年以上にわたり、聴罪司祭を務められた神父様の死を惜しむ人で、イグナチオ教会大聖堂はあふれかえった。涙ぐむ人、人、人。日本語、英語、スペイン語が聞こえた。
メンディサバル神父様は、上智大学構内にあるSJハウスの自室で黙想中に倒れ、2日後に静かに息を取られたという。神父様の臨終に立ち会ったヨンパルト神父様によると、メンディサバル神父様はかつて、聴罪司祭としてのご自分の活動をユーモアを交えて、「1メートル四方の職」と呼ばれたという。
私が初めての「ゆるしの秘跡」に与った「1メートル四方の告解室」。そこは、心の渇きを潤す「オアシス」であった。かつて、「私にとってゆるしの秘跡は喜び、これ以上素晴らしい仕事はないと思っています」とおっしゃったメンディサバル神父様にとっても、「オアシス」だったのではないだろうか。

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